黒く重たい雲をまるで神様が吐息を吹きかけるように。愛し合う恋人達が互いの髪を梳くように追い払っていく。

七色にも見える色彩。光のさざめき。手を伸ばす。
ちっぽけな手の甲、開いた指の隙間から目を貫く、眩しい……夜明け。

夜は、明けるのだ。そんな当たり前のことすら僕は見過ごしていたのだ。頑なに他者との繋がりを否定して、独り善がりに傷ついて。振り向かない背中ばかり眺めて。いつしかのしかかっていた劣等感に苛まれて。心を持たない人形みたいだった。

ひんやりと冷えた風を感じて目を閉じる。早朝特有の澄んだ空気が音楽のように僕を包む。ささやくように心地良い疲労を、過敏になった神経を、優しく撫でられる。

憎しみばかりに囚われていた僕は、どれほどの人をないがしろにしたのだろう。
大切な命を置き去りにして、知識だけを、技術だけを磨き続けた僕は、どれほどの人を不安にさせたのだろう。

あの小さな子供を、どれほど泣かせてしまったのだろう。
傷つきながらも、こちらをじっと見つめる硝子のように美しい瞳を、やわらかな色だけで描かれた心を、僕はいくつ裏切ったのか。

謝罪の言葉はいくつも浮かぶ。けれど、それだけじゃきっと足りない。あの子だけじゃない。僕を、こんな僕を待っていてくれたすべての人に。

何ができるのか。何をすべきか。
いまここに立つ僕は、もう、昨日までの僕とは違っている筈だから。
思うままに、間違えずに過ごしていける筈だから。
何のために僕が医師を目指すかも、息をするかも、歩いていくかも知っている筈だから。

本当に誰かを慈しみ、許容して。命を愛するということを学んだことだけは、胸を張って言える。相手が誰であろうとゆるぎない声で、言葉にできる。だからきっと。大丈夫。

……尊流。僕はお前に教えられたんだ。
生きる喜びを。そんなお前をみんなが慈しんでいる。お前の家族も、ヴァルハラのみんなも。……僕も。

あの瞬間。意識より深い場所から涙を流して両親の声に耳を傾けるお前を。
ただ、助けたいと祈った。助かると祈った。
奇跡を信じた。生命を引き寄せられると信じた。
引き寄せたいと。それだけが僕を支配した。

「……ふ、」

ああ、鮮やかな朝日が街を埋めつくす。暗く静かな闇を振り払い、はじまりを連れてくる。強烈な日差しは、苦しみも喜びも変わらずに今日へと繋げるのだ。
進むために。澱んで膿んだ痛みをさらして、やがては、傷跡だけになるように。

つんと鼻の奥が熱くなる。やわやわと動く涙腺が僕の眼を潤ませる。
感情のままにオペ中に流してしまっていた雫が、あの時よりも静かに引力に負けて落ちそうになって。
僕はそれが少し恥ずかしくて空を仰ぐ。
視界の先の夜を完全に取り払った真っ青な中を鳥が幾羽もよぎる。

なんて、綺麗なんだろう。何気ない日常の一部でしかない光景。見慣れた街並みなのに。どうしてこんなにも僕を揺さぶるのだろう。胸が、熱を持ったように締めつけられる。


ああ、なんて僕はちっぽけで浅はかだったのだろう。世界は変わらずに繰り返しを営むだけで。変わってしまっていたのは僕だけだったのに。
ああ、なんて僕は悲しい生き物だったのだろう。

世界はただ、美しい。
僕はそんなことすらも忘れてしまっていたのだ。
そこにある醜さも絶望も愛も慈しみもなにもかもを抱え混沌としながらも。

それでも世界はただ、美しいということを。


空はあかるい。はじまりの日。
あの優しい音を奏でる子供を通して、歓喜に身震いしながら。僕は世界の美しさを認識した。



本当は本当はは美しくて


title by lis
20081102



四宮。
プロフェッショナルな医師の誕生。
テルに屋上で笑いかけた後くらいをイメージしました。あの笑顔はいいですね。素敵でした。
このタイトルを見た時に真っ先に彼が浮かんだ今日この頃。





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