他人からすれば些末なことだ。きっと。例えば今、くしゃみをしようとしている瞬間ではないか。背中がかゆくなって、そこに手を伸ばそうとしているのではないか。
考えれば考える程に、あれやこれやと様々な状況が浮かぶ。
信じがたいことではあるのだが、携帯を片手に難しい顔をしている北見は上記に述べたような思惑に囚われていた。

彼は、さっきからかれこれ数十分。何度も携帯を開いては閉じるを繰り返している。
まるでこの世の破滅を知らされたかのような思いつめた表情で。

誰だって、心底惚れた相手には嫌われたくはない。

それが、鋼鉄の心を持つ揺るがないと賛辞される男であろうと。三十路を過ぎたいい大人であろうとも。変わりはしないのだ。

ただ声を聴きたい。
たったそれだけなのに北見はそれが出来ない。
元々、話好きではないのだ。むしろ沈黙を好む節がある彼には、用事がないのに電話などかけられない。
好きな相手の声が聴きたい。
それだけで充分過ぎる程の理由になり得るのに、彼の指が開いた番号を繋ぐ発信ボタンを押すことはなかった。

もう一度繰り返すが誰だって、心底惚れた相手に嫌われたくはない。

つまりは、北見は今、仮に電話をかけて繋がったとして。その時に相手の不味い瞬間に出くわさないかが心配なのだ。
またもや繰り返すが、背中がかゆくなっていたり、もしかしたらちょうど出来上がったカップ麺を相手が食すタイミングなのではないか……。挙げればキリがない。

普通に考えれば迷惑なら相手は電話を取らないし、不測の事態に陥っているのであれば、出ない。そのまま留守番電話サービスに直行な訳である。
なのにそれが出来ないのは、終結するところ「心底惚れた相手に嫌われたくはない」になるわけだった。

一体、誰が。彼のヴァルハラ屈指の果ては、次期院長候補であると噂ではなく周知の認める人物(本人はあくまでも院長にはかなわないと思っている)である北見が、そんな些末(他人からすれば、だが)な事で悩んでいるかなどと想像できるだろうか。

誰も想像など出来はしないだろう。その姿はあまりにも、初すぎる。まるで喜劇のようだ。
眉間のシワが険しくなる彼の心情がそんな、言ってしまえば、どうしようもないことに支配されているなどとは、気付くまい。恐らくは、神ですらも。

ピンポーン……。

突然に響いたチャイムに北見は握りしめていた携帯を見る。一般的に来訪するには遅いとされている時刻だ。
迷惑な勧誘だろうか。新聞ならばまだかわいげがあるが、先日は怪しげな宗教の勧誘だった。あれはいただけない。信仰は個人の自由ではあるが、それを他人に押し付けるのは如何なものか。好きなら勝手に崇めればいい。邪魔はしない。だが。

ピンポーン、ピンポーン。

「……ちっ! なんなんだ!」

そう。邪魔をしないで欲しい。今、北見は大変デリケートな判断を強いられているのだから。惚れきっている恋人に電話をするか、否か。

「……北見、いない、のか?」

チャイムに交じった声に北見の手から携帯が落ちる。カシン、と床に叩きつけられたそれの派手な音と、返事をする北見の動きは、ほぼ同時だった。

玄関の鍵を慌ただしく開ければ、そこには先程まで想い描いていた北見の恋人がいた。

「どうしんだ……?」

嗚呼、どうしんだ? じゃないだろう。
北見は静かに自身を窘める。
彼の恋人は頭を掻きながら困ったように苦笑いをした。

「……いや、いきなり来て迷惑かなって、考えてたりしたんだけど……その、ぐちゃぐちゃ考えるより行動した方がいいかな? ……って」
「……」
「ご、ごめん。連絡もなしに、でも、声聴きたいなって思ってて、そしたら無性に……」

すごく、会いたくなって。

消え入りそうに呟かれた恋人の言葉を北見は、衝動的に抱き寄せて己の胸に吸い込ませた。


嗚呼、なんてくだらない事で悩んでいたのだろうか。
誰だって、心底惚れた相手に嫌われたくはない。だけど、誰だって心底惚れた相手の声を聴くことに躊躇ってはいられないのだ。必要だから心が求める。貪欲に、痛むほどに。

失いたくないから臆病になる。いい大人であってもそれは変わらない。それなのに幼い恋人は、きっと北見よりも悩みながらここに訪れてくれたに違いない。


「俺も、お前に会いたかった。来てくれてありがとう。……輝」


ならば自分はこれ以上恥ずかしい大人にならない為に、北見は誠意と喜びを込めて恋人を強く抱きしめた。

2008.10.11
一縷



初々しい北さんが書きたくなった。後悔はしてません。愛してるから!





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