□懐胎
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 片割れが妊娠した。身重の彼を俺はただ。「そうジロジロ見られると恥ずかしいよ」言って、彼は常の藍に染まった学生服から覗く温かな掌をその腹に滑らせる。何度も、何度も。その度に少年の腹の中、生き物はぶくりと肥えていく。少年の眼差しに映るのは慈愛だけで、俺は脚が震える。
「このこは、君に」
おかしいと思うことは無く、その疑問は既に世界から抹消済み。ここはアルコールが揺蕩っているようでまるで現実味を奪う。白い光ばかりが目に焼き付く。彼は真っ白い部屋に一人坐りその腹を護って、俺は光だけを集める眼でそれを見ていた。
 ドクリ、ドクリ。
眠る彼の躯の中心、そっとその球体に耳を寄せると、確かにそこには脈動した胎児が息づいている。何かが在った。
駄目だ。駄目だ、□□。
彼の名前――否、ただの代名詞でしかない。叫んだ、耳鳴りほどの叫びはだが言葉にならず澱みに沈む。握り絞めた指に血が滲んだ。「□□、□□」彼に名前は無い、ある必要も無い。俺に無いのだ。
いつの間にか世界は暗闇に覆われている。球体はまた一つぶくりと膨れた。
でてくる、でてくる、
俺は立つことさえ出来なくなっていた。
 ある日、何時もの様に彼は部屋に座り腹を撫でていたがふと呟いた。もう生まれる。言い切る前に俺は彼の腹を裂いた。開かなくなった拳に冷たい刃を突き、棒になった脚を彼の傍まで引きずって。何度も何度も、光に潰された暗闇の中。この生き物が外に出ることが俺は何より恐ろしかった。汗だくの額から一筋つうと滑ったそれは彼の爛れた腹を満たして流れだした。
生まれるよ、
――嫌だ。
もう一人の、
――嫌だ。
俺はへたり込んだ身体でその腹を覆った。溢れ出した液体は俺の顔を濡らす。ズブズブと足元から迫り来るそれは遂に部屋を満たし総てを飲み込んだ。俺は安心して目を閉じる。後に遺るのはただ静寂だけだった。





 ふと目が覚める。汗だくで、屋根裏の天窓から白い光が射し込んでいた。「おはよう」彼の声がする。あまり廻らない頭を向ければ彼が笑った。
「重いと思ったら君だったのか」
その言葉でようやく気付いて身を起こす、と、酷く驚いた顔をされた。
「君、泣いてるの?」
言われた意味が解らず見開いたままのそれを見つめ返せば、彼の指が俺の頬を指し示す。そこに手を運ぼうとすると何時の間にか固く結んで離すまいと、ジャラリ、鎖の音がした。
「あれ?なんで君がパズル持ってるの」
解らなかった。答えられず困惑する俺を眺めたまま、彼はふっと楽しそうに笑んだ。
「ふーん?ま、いいや」
今日は特別な日なんだし。そう言って彼は腕を伸ばす。柔らかな指が頬を拭った。
「おはよう、もう一人のボク。君に、ボクの今までを、全部あげる。時間も、記憶も」
ねえ、新しいボク。そう彼は、今までで一番明るい笑顔を俺に向けた。
「君は今生まれたんだよ」
恐怖が再び支配する。俺は液体が顔を滑っていく感触を覚えた。滲んだ視界、叫びが声にならず耳を劈く。固まった拳から痛みが麻痺する。縮こまった脚は折り畳まれたまま。
「あい、」
代名詞、彼に名前はない。だって俺にないのだから。
「□□□」
彼が俺を呼ぶ。無いはずの名前で、俺だった筈のお前の名。唇が震え言葉にならない。潰された眼に液体が滲みる。息ができない。溺れる、溺れる、
「誕生日おめでとう」
溢れ出す。
「相棒、」

2008/06/04
俺が生まれた日、俺はお前に殺された



 

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