小説2

□きみに歌を3 10.6.5
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「なあちょっとあんた、それ猊下の部屋に持ってくのか?」

 軽食を乗せた台を押す女を、柑橘色の髪をした男が呼び止めた。
「あらグリエおはよう。そうよこれは猊下にね」
 にこやかな彼女とは逆に、台にチラリと目をやった男は軽く眉を寄せる。
「猊下のお目覚めには果汁を絞ったやつじゃなかったか?」
「あらまあ、よく知ってるわねあなた」
「これは何だ?」
 女の言葉には反応せずに腕を組んだまま、男はクイッと台の上を顎で指した。そこにある容器に入れられた物は、果汁ではなくて白い液体だ。
「これは…」
 微かに動揺した女に空色の瞳がしっかりと照準を合わしてくる。
「夕べ猊下が御酒を召してられたのと何か関係が?」
 だがその言葉には彼女の緑の瞳も訝しげにスッと細まって、対決するかのようにこちらを見上げてきた。

「――なんのこと?」

 ヨザックは部屋係のこの女の口が固いのを失念していたことに気付いた。
 あまり構われるのを厭うあの「彼」が、彼女だけはずっと側に置いているのだ。完璧な礼儀作法に、きめ細やかな気遣い。そしてけしてでしゃばらない性格。その全てが気にいられたらしく、この血盟城に滞在する彼の世話をするのは彼女ただひとりだけ。気安い風を装ってはいるが、彼が心を許す人物は実は驚く程に少ないのだ。
 彼女は試すように黙って見つめてくる。その厳しい視線にヨザックは溜息で答えた。

「……ヤギ乳は匂いを消すからな。でもあんなに飲んでちゃ身体に毒だ」

 苦い口調に、本心から心配しているのが伝わったのだろう。彼女は表情を緩めた。それでも無言のままヨザックをしばらく見つめる。何故知っているのかと訊ねてはこないのは、彼の仕事を理解しているからだろう。
 しかしどうやらお仲間だと認めてくれたらしく、彼女は息をつきながらヨザックにだけ聞こえるように声を潜めた。
「歌をお歌いになられた翌日はいつもこれをご所望になるのよ」
「いつもだと? まさかいつもあんな量を?」
 護衛役の質問に頷くことで肯定した女は、更に声の調子を落としてから真剣な顔をした。
「ねえグリエ、あなたも猊下に進言してもらえない? 最近少し飲み過ぎですって」
「しかしオレが知っているっつーことは猊下には気付かれてないぜ」
「……そう…」
 明らかにがっかりした様子の彼女はもう一度同じ言葉を呟いた。
「そう…そうよね…これは厨房長と私とフォンヴォルテール卿しか知らないはず」

「閣下も知ってたのか?」
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