小説2
□きみに歌を3 10.6.5
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上司の厳しい顔が浮かんでヨザックはつい顔を顰めた。確かに食料を管理する厨房長は知っているに決まっている。そしてそれを手配する申請の書類を受け取る最終責任者はフォンヴォルテール卿にほかならない。
いや実際は魔王かその補佐のフォンクライスト卿のはずなのだが、そっちにいってないということは、厨房長が直接フォンヴォルテール卿に話を持って行ったのだろう。
「彼」の為に。
「……ねえ、あなた聞いた? 夕べの…」
口元に手を当てて考え込んでいたヨザックに、彼女は唇を噛み締め悲しそうな目をした。
「あの方はずっと…」
「それ、他の奴に言ったか?」
ヒヤリとした声に一瞬で彼女の背筋に冷たいものが走った。元から青白い顔が本当に白くなる。
いつもふざけていて笑みを絶やさないでいるこの男のこんな声は聞いたことがなかったからだ。いや声だけではない、目付きも違う。ただ見つめられただけなのに動けない。
彼女は忘れていた事実を思い出した。「アルノルド還り」という称号が彼に付いていたのだと。
その称号はウェラー卿ばかりが有名だが、顔馴染みの兵士達に言わせると、ウェラー卿の横にもしも彼がいなかったら、ルッテンベルク師団に彼等二人がいなかったら、誰も還って来れなかったのかもしれない、というくらいグリエ・ヨザックは凄腕の兵士らしい。
兵士連中が彼の事を崇拝するような目付きで見ている事も知っていた。たまにウェラー卿に会いに来たついでに、閣下と一緒に俺達に剣の稽古を付けてくれるんだぜと、傷だらけになっているのに嬉しそうに笑う顔も見た事がある。
しかし彼女からしてみれば、口を開けばいつもからかい口調の、時々女装なんてものまでやっているおちゃらけた姿しか知らないのだ。もの凄く楽しそうに女言葉まで使っている姿しか。
あんな彼がまさかと全然信じていなかったのだが、しかし今自分の目の前にいる男は確かに激戦区を生き延びた兵士というのが全身から感じられた。
ただ彼は静かに話しているだけなのに。
「い、言ってないわ、誰にも」
「本当か?」
「本当よ、他にも聴いた人は何人かいたみたいだけど、でもかなり遅い時間だったから、そんなにいないはずよ。それに聴いたとも誰も言わないから……皆して口を開かないの、自分から黙っているのよ。もちろん私も誰かに言うつもりないし……けど」
途切れた言葉の先を黙ったまま促してくる男に彼女は重く口を開く。
「……あなたはあの方のお側によくいるし……だからさりげなくお慰めしてもらえたら、って思って…」
俯き小さくなっていく彼女の声は震えている。けれども震えているのは恐怖からくるものだけではないのだろう。
「……あの方は…」
スカートの裾を握り締める彼女の肩に手を置いてヨザックは言葉を遮った。
「なあ、オレもこれを運ぶの手伝っていいか?」
「――え、ええ、それは構わないけど」
唐突な頼みに思わず顔を上げた彼女が戸惑いながら、それでもぎこちなく頷くと、彼は先程までとはガラリと雰囲気を変えた。両掌を重ねて斜めに倒すと、シナを作って高い声を出す。
「じゃあアタシすぐ女中服に着替えてくるから待っててん」
ポカンとした彼女を置いてヨザックは駆けていく。その背中が見えなくなってから、残された彼女は長い息を吐いた。