short


□名も無き歌。
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 ほとほとと戸を叩く音がして、男はうっそりと身を起こした。
 室には既に夕闇が満ち満ちていて、気の早いネオンが街を夜の顔に塗り変えようとしている。
 開け放たれた窓に夏から付けたきりの風鈴はちりりとも鳴かず、けれど何処からともなく流れてくる夕餉の香りが躊躇いがちに鼻腔を擽った。家族の香りだ、と己が持たず生まれて来たそれを瞬間思い、しかしすぐにそれを忘れる。
 狭いソファーに沈んでいたせいで凝り固まった首を回せば、骨の擦れ合う音がする。

「寝ちまったか……」

 僅か、間の抜けた呟きの後を追うように、また戸を叩く音がして、男は獣のように音もなく足を床に下ろした。春を待つ季節の床はひどく冷えて、這い上る震えに背を任せる。その仕草もまた獣めいていたが、それを見た者は誰もいなかった。
 裸足の裏でこするように床を進み、そう言えば同居人の少女は何処に行ったのだろうと考えながら戸を開ける。
「銀時」

 聞き慣れたやけに涼しい声に名を呼ばれ、男は顔に張り付けていた笑みを消した。この戸を叩く人間の大半は金にもならない厄介ごとを持ち込む顔馴染みで、その殆どは返事も待たずそのまま戸を開く。残りの半分は集金屋と借金取りで、その更に残りが客だった。
 目の前に立つ声と同じく涼し気な美貌をした男はそのどれでもなく、けれど間違いなく自身の顔馴染みであり、過去に残してきた借りの取り立て屋だった。

「ヅラ……」

何をしに来た、と不機嫌を隠さずに応じると、彼はすぐさま「桂だ」と正す。普段通りのやり取り。この後に続く言葉さえ手に取るように判る。再会して今まで、幾度となく繰り返してきた会話を反芻し、その先手を封じるように口を開いた。

「帰れ。何度来てもオレの気持ちは変わらねえよ」

 そう言って先刻自ら開いた戸に手を掛ける。何度も吹き飛ばされ、蹴り飛ばされ、それでも何とか機能を果たしているそれはひどく立て付けが悪く、勿論手間取っている一瞬を見逃して貰える筈もなく、桂はするりと入り込んできた。


「俺はお前に断られた言葉の分だけ、同じことを言うだけだ」

 後ろ手に重ねられた手で戸が閉められる。そうすれば室中は途端に外界との繋がりが薄くなった。煌く双眸は落日の朱を受けてぬらりと光る。
 遠く細く豆腐売りの声が聞こえた。

「どうして俺なんだよ」

 真摯な瞳から逃れるように下を向いた。桂はそういう男だ。綺麗ごとだけで生きてきた訳では決してないだろうに、いつも真っ直ぐに他人の目を見て話す。銀時はその目が苦手だった。何かひどく痛ましいものをみている気分になって、真正面から捕らえることが出来ない。
 このときもそれは同じで、三和土に差し込む影を数えるように視線を逸らせた。

「あの時、俺たちが目指したものはいまも俺の中には息づいている。それは銀時、お前も同じだと思うからだ」
 声は凛とよく響く。どうしてこの男はこうも折れないのかと、銀時は不思議に思った。
 己の意思や信念を、曲げ、折られ、汚されたことがない訳ではないだろうに、それでも彼の背はいつもすっと伸びている。

「そんなもん忘れちまったよ」

 思いの他、声が弱った。
 誰にも明らかな虚言だと気付かれてしまう。旧い友なら尚のことで、銀時は反論を許す間を置かずに句を継いだ。

「ヅラ、あれはな熱だ。
 俺はもう失くしちまった。お前にも本当はもう判っているだろうよ」

 熱病にかかっていたようであった、あの一瞬の時代。駆け抜けた季節。友の左の眸を奪い、師と多くの仲間の命を屠っていったあの刹那を、魔物と名付けることに躊躇いはない。
 だがあの燃え尽きる寸前の花火のような煌きを、醜悪だったと言うことは出来なかった。

「俺は今まで自分が幸福だと思っていた」

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