short


□雨だれ
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 雨だれの音が不意に鼓膜の裏側にまで忍び込むような感触がして、男は目を覚ました。
 室中には夜が冷え冷えと染み込んで、布団から出た髪は先まで冷え切ってしまっている。厚い雨雲に月は隠されて、今が夜明けに近いのか、寝入って間もないのかも判らなかった。
 ぴしょり、と暗がりに水の跳ねる音がして、ああそう言えば此処はいつも起居する部屋ではないのだと思い出す。
 その音がやけに癇に障って、寝返りを打った。流石に拠点にしている部屋を、雨漏りさせたまま放置出来るような神経は持ち合わせていない。春の警戒キャンペーンだと、歌舞伎町周辺が最近やけに騒がしいので、緊急用に確保している隠れ家へと身を移したのだ。
 人の住まない家は荒れるのが早いというのは本当らしいと、こんな所で身を持って知った。こんなことなら多少危険は増すが、立川の方にしておくべきだったと、知らず溜め息が漏れる。
 雨音と、それよりも僅かに重い水音が静寂を塗り込めて行く中で、男はひとりだった。ひとりでただまんじりともせず、時が経つのを待っていた。先程まで彼の瞼の上にあった眠りは、残滓も残さず消え去り、男はいつ明けるとも知れぬ夜の中に取り残された。
 額を押し付けるようにうつ伏せた枕からは、自身の体臭に混じって古い家屋に特有の黴臭さが香る。それに何とも言い難い郷愁を感じて、明日晴れたら布団を干そうと決めた。
 彼の郷里は都会とは余り言えない町だ。山と海の近い分開かれた土地ではあったが、それでも古い田舎町に独特の閉塞感はあり、稀に友人宅に泊まりに行く度に、何故か決まって鼻に着くのがこの匂いだった。
 男はその匂いが苦手だった。それは自分を余所者だと感じさせたからだ。
 あの日の寝床も、この匂いがした。寒い日だった。重い雨混じりの雪が、厚く垂れ込めた鈍色の空からぼたりぼたりと降っていた。
 それは戦が終わった日だった……。
 突然だった、訳ではない。予め幕府からは近々降伏すると匂わされていたし、それに対する覚悟もしていた。……筈だった。
 だが現実はそう甘くはない。甘くはないと言うよりも、それを国の決定だと割り切れない男の心が甘かった。
 男はただ夢の跡に立っていた。幾日も幾日も。
 何度か呼ばれた声に生返事を返した記憶はある。
 それでも男は動かなかった。黙って空を見上げていた。
 何日目かに雨が降った。
 雨は男の髪を、顔を、肩を、腕を、着物を、足を濡らしていった。そこで男は漸く現を思い出した。
 目の前に、見慣れた銀色があった。夜色の深い藍は潤んでいた。
 どうした。ひどい顔色をしているぞ
 と、言ったつもりだった。ひりついた喉は乾いた息だけを吐き出した。
 銀色からも声は出なかった。ただ幾人もの天人を切って、夜叉となり果てた腕で強く抱き締められた。

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