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□雨だれ
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それから、どうしたのかは分からない。気付いたら粗末な部屋の、布団の上に寝かされていて、相変わらず夜空に縫い止められた月光の色が、己を覗き込んでいた。湿っぽい黴の臭いが僅かに鼻につく。
「ヅラァ……」
「ヅラじゃない」
疲れたような声が男の嫌う名前を呼んだので、とっさに言葉を返す。目の前の双眸がひどくやさしく綻んだ。
「俺はな、出てくよ」
布団から出た腕を取って、血色の悪い青白いそれを哀れむように撫でられる。その手つきと同じくらいやさしい声で、言葉はひどく重かった。
「銀……時……?」
瞬間、何を言われたか判らず、その面を見詰めた。けれど彼の目は寸分狂わず、揺れずに、自身の上に留まっていたから、それが本心であるとは直ぐに知れた。
「そうか……」
返す男の声もまた、ひどく静かだった。判っていた。月は移り気なもので、自分ひとりに繋ぎ止めておけるものではない。
引き留められない。と思った。またその権利も、その為の言葉も男は持たなかった。
ただ静かに、そうか、と繰り返した。
ぬばたまの闇を宿した男の黒髪に、月の雫が弾けた。自分を見下ろす、夜明け前の空を嵌め込んだような瞳が、ひどく不安定に揺れる。
男はそれを見ないように、静かに目を閉じた。ぱたりぱたりと音を立てる雫を涙とは、互いの為に呼ばずにおいた。
月色の青年が立ったのは、それから暫く後の、ある雪の日のことだった。
常の白一色の戦装束を脱ぎ捨て、藍染の着物に黒の羽織を纏った彼は、白銀の世界に一筋垂らした墨のようであった。何処までも追えるように思えたその染みが、地平線の彼方に消えるまで、男はその背を見つめ続けていた。
ひとりの友を見送った男の心には、ぽつりと黒いちいさな染みが、ひとつ残った。
別れの日に桂は泣かないだろうな、という妄想。桂って内に秘めるタイプっぽいじゃないですか。少なくとも初期は。
銀さんは泣きます。涙は心の汗で、汗は心の涙です。