『この世は何故、何のために存在しているのか?人間は、詰まる所、何のために生きているのか?何を揺るぎない拠り所として生きているのか?』        生物として生身の体を持っている以上、いつかは誰もが死なねばならない。しかしその前に人は何を考え、何をなそうとするのか。。          自らに根源的な問いを発しつつ、それに答えることとしての何かから離れて生きて行くことはできない。この問いは
各々がそれぞれに解いてゆくべきものであろう。しかし、このことは個人の深い内面に根ざした問題であるために、日々の生産・消費活動の主体として、一、欲望単位として生きざるをえない悲しみや痛みを感じない生活者には忘れたられたか、元より無い問いなのかもしれない。。
日々の戦いの中で、剣の刃はこぼれ、矢筒は空になること、例えば不治の病や愛しき者との別離、様々な喪失感にどうしょうもない敗北を認めるとき、己の内の深いところから立ち上るのが祈りなのだろう。。

祈りは必ずしも、宗教性を帯びた、儀礼や神を想定したものではないと、ミンコフスキーは言う。
それはひとつの問いであり、問題提起なのであるとする。祈りは未来に向けられ、人生の危機的な状況で、希望がうちくだかれ、もうなすすべがが無いという場面になると我々の心は《祈りを織る》のである。普通の願いよりも祈りはさらに遥かに遠く歩み、絶対的なものの果てまでに達する。。そして真実の自己放棄がそこに始まる。
天地の流転から離れ、日々の躍動・エランから己の内に深く回帰する。

一種の夢が内在回帰のプロトタイプと考えられるが、祈りと比べればなんとはかないものであろう。。
さらにミンコフスキーはおおむね次のような意味のことを書いている。――祈りの内には未来がふくまれているが、祈りは本質的には能動的な活動ではなくて、淡い希求に近いものである。なぜなら祈りは自らを棄てることであり、そのことによってのみ、彼方まで歩み、未来を引寄せるからだ。

祈りはもともと空しいのが立て前である。たとえかなえられた祈りの統計をつくってみたところで意味がない。人生にとって重要なのは、ただ希求して、祈ることができるという事実だけである。。

しかし、そこではじめて永遠なるものの観念が我々の心にわきあがる。。それは時間を越え、またあらゆる有限の、囚われを越え、これらを抱擁する。。。



※『生きられた時間』・みすず書房・ミンコフスキー

∽カスラ∽




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