ほか、いろいろ。

□青色吐息
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五月の若木がまぶしい。その向こう側に広がる青は、もっと優しくない。

曇ればよかったのにと、運動を嫌う小中学生のような駄々を呟いて、枸雅泰之は自然光から身を引くように背伸びをした。
パソコンの電源を落とすとジリジリとした低音が消え、少し開いた窓から鳥の鳴き声が鮮明になる。
上京していた年をのぞけば四十年はこの土地に住んでいるというのに、泰之は鳥の名前も覚えていない。

鳥どころか、昔から虫にも、山にも川にも、神様の抜け殻にも興味がない。
まにまに流されるつまらない男。
それが枸雅泰之の四十八年間だった。

泰之は新緑の輝きから逃避すべく目を閉じたが、それではいっそう、自然のささめきが寄り添うだけだった。
妻の日都美は午前から婦人会、泰之の子供時代を知る女中もその手伝いで出払っている。大学生の息子と小学生の娘は都会におりーー…人の気配がない家の中、得体の知れないものによってかかられて、泰之は椅子の上で膝を抱えた。

決まって一人の時、ひとりきりになるための幼い儀式。父から、兄からの、あの森からの干渉を受けないように根もおりてこない底の方へと落ちていくための。


もう少しで落ちきる、というところへ無粋な雑音が紛れ込む。
エンジン、ドア、引っ張り出す音。靴底と砂利がこすれて、「お届けモノです」と若い男の声。縁故で宅配業者に採用された若者は、同じ言葉を繰り返して、反応がないと知ると三度目には「日都美さん?」と。

友人に呼びかけるような気軽さにギクリとして、思わず、泰之は膝に回していた腕を解いてしまった。

なんてことはない、この辺りの家は全部『枸雅』だ。判子はややこしく、サインはフルネームで、村に明るい配達員とくれば名前くらい簡単に口に出す。
珍しいどころか、日都美と若者が三言以上交わすのは普通のことだった。
ここは普通に、立ち上がり、音をたてて階段を下りていけばいいだけのことで。

……居留守は大人気ない。
泰之が膝に押されてわずかにズレた眼鏡の位置を直し、脚をおろして腰を上げようとした、その矢先に。

「…泰之さん?」

若者の声色は泰之の気配をしっかり感じ取っていた。
一方、うっかり先手を取られたほうは。

「…………、」

滅多にどころか、今まで呼ばれたためしのない自分の名前に、完全に居留守を解くタイミングを逃していた。

泰之は神に祈るかわりに妻に願った。いますぐに帰ってきてくれ、と。

大人気ない泰之の願いを叶えたのは、やはり神ではなく妻の日都美だった。
鳥だけが呑気な、庭と二階を繋ぐ気まずさを、彼女は「あらあら」とご機嫌なソプラノひとつで見事に断ち切ってみせた。

こんにちは。今日は婦人会でね。ああ、これね、ありがとう。はい、ご苦労様。お仕事がんばってね。

日都美と若者の会話が終わって玄関の引き戸が音をたてる。もう一度、最後まで閉まりきったのを聞いてから、泰之は今度こそ重い腰を上げそろりと階段を下りていく。

四時間ぶりに見る日都美は台所で冷水筒からコップに麦茶を注いでいるところだった。

「……おかえり」
「ただいま」

目が合う。日都美は泰之の無表情に苦笑してからコップを傾けた。外の陽気だけでなく魑魅魍魎の影にも疲れたのだろう、水平に戻ったコップに中身は少ししか残らなかった。

「お昼、少し多かったかしら。食欲がないなら夜はおうどんにでもする?」

日都美に問いかけられて、泰之は用意されていた昼食のおにぎりを食べきれずに、『後で食べればいいか』と冷蔵庫に戻しておいたことを思い出した。

「……普通でいい。あれは、今から食べる」
「そう?」

泰之は小首を傾げた日都美から麦茶を受け取り、食欲はあるんだと主張する。
卵焼きとホウレン草のおひたしをおかずに、ぼんやりしながら一人で食べたおにぎり。みっつのうちふたつまで食べたところで、泰之は『噛み過ぎて』ひとつ残してしまったのだ。
子供達であればものの十分でごちそうさまする量に泰之は三十分かかる。
経験則から好きな物を先に食べる、嫌いな食べ物も人並み以上の面倒な胃袋の持ち主は、冷蔵庫から小ぶりのおにぎりが一つ乗った皿を取り出すと、戸棚から妻と柄違いのコップを選んで慎重に麦茶を注いだ。
 
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