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□for 不死蝶企画 04
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T.

「では、坊ちゃん」

 僕は目を閉じて、その瞬間が近付くのを待った。

 黒いヴェロアの上で不敵に輝く真珠にこびりついた鮮血のような唇が、ゆっくりと開き痛みを与えるのを。唇は内側から輝いている。生気、月光、唾液、待ち望んだ星霜。全身の感覚は鋭敏になり、睫毛の重さもそれによって起きた風も、僅かに握った手の音も、僕にはっきりと知覚させた。今更気付いてもどうしようもない生の感覚。短い時間を埋め尽くすように押し寄せるそれを、僕は振り払おうとした。今、僕が感じたいのは、そんなものじゃない。

 僕はセバスチャンの唇だけを意識しようとしたが、幕のような死のイメージが拒みようもなく垂れ込めてそれを邪魔した。『キオス島の虐殺』のような血生臭さ。だが、それは次第に溶けるように白く濁り、安らかになり、ぼんやりと光に包まれていった。

―これが‘受容’だろうか…?

 死はいくつかの過程を経て受容されるという。

 否認、怒り、交渉、抑鬱、そして受容。

 そう、僕は死を拒み、復讐に冷たく身を燃やし、セバスチャンと取り引きをした。…

U.

 瞼を透かして踊る光が眩しい。

 人の声がする。

 ひそひそと話しているがさほど重大なことでもないらしい。声は平凡な伸びを持って、春風のように穏やかに、耳の奥に届けられる。

(なんだろう)

 目を開けてもよいのだろうかと考えた。少し前まで、そうしてはいけない理由があった気がする。それは―…。

「見ないのですか」

 力強い声が、ざわっ、と、耳の上から額の辺りまで直線的な震えを起こす。
 見開いた瞳に、沢山の色が飛び込む。

 緑の柳が作り出す鬱蒼とした昼の影、重たく水を含んだ銀のドレス、見送る対岸の白い花、祝い事でもあったかのような花輪の色の鮮やかさ。

「オフィーリア…」

 なぜ、いま、ここに。

「あ…」

 いや、自分は何故、ここにいるのか。

 飾られているのはミレイの『オフィーリア』だけではない。部屋の壁一面にラファエル前派と理想派の絵画が並べられ、大勢の人々がそれらを眺めて囁きあっていた。

「ここ、は…?ナショナル・ギャラリー…では、ないようだが…」
「テート・ブリテンです」
「テート…ブリテン…?」
「1897年にヘンリー・テート卿のコレクションと寄付金を元に創立されたナショナル・ギャラリーの分館で、1955年には完全に独立、2000年には…」
「待て、ちょっと待て!」

 そんなはずは、ない。

 僕は水底に引き込まれまいとするのように、頭を振り、頭上を見上げて叫んだ。

「一体、何の話だ!今は一体、何年なんだ…!」

V.

 人々はヴィクトリア朝の光景からウィリアム・ターナーの作品へと、テムズの下流のようにゆっくりと流れていった。シエルは黙って座ったまま、自分の考えを整理するのに没頭していた。

 今は、2011年であること。

 ここはビッグ・ベンから南に11kmほど下ったところにある、新しい美術館だということ。

 そして―それに気が付いたとき、シエルはぎょっとしたのだが―自分の身体が、以前とは変わってしまっているらしいこと。

 だが、服の中以外はほとんど変化していないようだった。最大の疑問が解決しないまま、建物の外に出、シエルは振り返って自分の居た場所を仰ぎ見た。

 テート・ブリテンはバロック風の白く美しい造りで、テムズを渡る風はシエルが知っているよりずっと清潔だった。道には石のようなものが敷き詰められており、土埃の立たない代わりに日差しを眩しく照り返していた。といっても、陽光と風の手触りは秋の近さを教えている。シエルは夢の中にいるような気持ちで、舗装された道路をセバスチャンについて歩いた。

「セバスチャン」
「何でしょう?」

 通行人の気味の悪い恰好より、変わってしまった街並みより、気になっていることを口にする。

「僕は…死んだのではないのか?」

 血生臭いイメージを覚えていた。押し寄せる生の感覚を退け、死を覚悟したあの一瞬。

「…お前は天使との戦いに勝ったが、別の悪魔に横槍を入れられた。その悪魔との戦いの中で僕自身も悪魔になり、だが、また人間に戻って…」

 ようやく、契約を果たす時が来たのだ。

 高い建物の影に入り、セバスチャンの微笑が薄蒼く滲んだ。

「何故、僕は生きている…」

 シエルは胸の前で、ぐっと拳を握り締めた。

 幾度かショーウインドウに映る自分の姿を眺めたが、ゾンビでも幽霊でないことは確かなようだった。

「それに…この身体…」
「あとでゆっくり、ご説明致しますよ。それより、お腹が空いておいででしょう?」

 気がつくと、道路に突き出た青い軒に白でENGLISH RESTAURANT AND WINE BARと書かれている木造りの店の前にいた。

「人間に戻られてから、一度もお食事をとっていらっしゃいませんから」

 中は思ったより広く、明るい天井からいくつかの鉢植えが下がっていた。店の隅にある時計は五時半を差している。クッションはないが、清潔で静かな店内は、悪くなかった。

 小さく切った野菜に囲まれた、マッシュルーム型のパイが運ばれてくる。
 パイの層に、恐る恐るフォークを入れる。シエルが思っていたより、それは喜びをもって口の中に広がった。

(セバスチャン…も…飢えているはずなのに…)

 店には少しずつ、リンゴ酒に酔った人々の陽気な声が満ち始めていた。

W.

 何故、自分を食さないのだろう。

 その疑問について考え尽くしてしまうと、落ちる日が月を呼び起こすように、ある考えが浮かんだ。

 もし、セバスチャンが、魂を啄む瞬間を狙っているのだとしたら。

 それは突然であってほしい。

 過敏な神経が作り出したイメージに邪魔されることなく、正確にその感触を刻み込めるように。

 死が恐ろしいとは、思っていなかった。ただできれば希望する形で、それを得たいと思った。



 二人を乗せたキャブは暗くなり始めた道を30分程走ったところで停車し、シエルは、The Pelham Hotelという看板の文字と、見たことのない紙幣やコインのやり取りを交互に眺めた。

「ホテル…?」
「ええ、今夜からはここに」
「ロンドンで、ホテルに泊まるなんて、…」

 嬉しいのか、寂しいのか、はっきりと分からず、シエルは口を噤んだ。いろいろなものを見過ぎて、少し疲れているのかもしれなかった。

 セバスチャンは同じくらい慇懃なレセプショニストから何か荷物を受け取り、シエルをエスコートした。




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