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□for 不死蝶企画 05
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風が始まる音を確かに聞いた。世界が変わるのをこの目で見た。一切の妨げは身体を離れた羽のように、地平の彼方へ消えていった。
「フィップス…そんな…、駄目っ…!」
ベージュのスカートに包まれた白い脚に、荒波の中で舵を取るように身体をぶつける。壁に押し付けられた薄い背中が悲鳴を上げる。
強く擦り上げる度に、額や首筋に蒼い血管が浮き出る。
白銀の髪が一筋、紅い唇に噛み締められていた。
暖かい日差し、ローラ・アシュレイの夏物の棚、遮光カーテンのはためき。トーマス・グッドのシャンデリアの下に飾られたマダム・バタフライは名花オフェリアの枝変わりで、受け継いだ甘さを淡紅色の花弁の層から匂わせている。
街全体に、新鮮な活気が満ちていた。来月にはエリザベス女王の公式生誕式典も行われる。ロンドンが輝き出す、薔薇の季節。
土曜日以外の昼に開かれるペチコート・レーン・マーケットでは、古着を売り買いする女性達の間で硬貨とロンドン訛りが飛び交い、季節感こそないものの他のマーケットにはない独特な華やかさが溢れていた。その中に、古着にも女性にもあまり興味がないはずの二人組の姿があった。二人のチャールズは、今度学校で演じる劇のための衣装を揃えに、このマーケットを訪れていたのである。
「どんな服がいいんだ?」
フィップスは、普通ならこの時期の店頭にはない煉瓦色のコートを撫でながら、隣でつまらなそうにしているグレイを振り返った。
「現代的な、女子の服装?現代版モンテ=クリスト伯だから」
フィップスとグレイはクラスが別で、劇を演じるのはグレイのほうだった。エリザベス女王が学校を訪問されるため、どのクラスも催しの準備に熱が入っている。女装してメルセデスを演じなければならないグレイだけは、大いに不満だったものの。
「メルセデスって、最後、モンテ=クリスト伯と結ばれるんだろう」
ごく稀にある男物を扱っている店の主人が、二人を呼び止めようとする。人をかき分けながら、色とりどりの服の山の間を歩く。
「フィップスが言ってるのって、映画版の結末でしょ」
「ああ、そうか」
ピンクのキャミソールをつまみ上げ、肩を竦めて放る。グレイの高貴すぎる顔立ちではダンテスやダングラールはつとまらず、伯爵家の跡取りがフェルナンを演じたのでは似合いすぎて面白くない。体格から見ても女役、と満場一致で押し切られてしまったが、練習にも衣装作りにも精を出す気になれなかった。が、適当な服を買って細部を直せば簡単だとフィップスが手伝いを申し出たため、二人でオールドゲートまでやって来たのである。
「まさか、地下鉄の乗り方を忘れてるとはな…」
呆れたような呟きに、僅かに顔を赤らめる。
「滅多に乗らないんだから、しょうがないじゃん!」
どこへ行くにもたいてい運転手が付いているグレイにとって、地下鉄はテーマパークの乗り物より疎遠なのである。女装を押し付けられたのは、そんな‘お坊ちゃん’な彼への、クラスメート達のささやかな意地悪かもしれなかった。
二人の前を大きな帽子の婦人が横切り、会話が一瞬途切れた。
立ち止まったグレイの横に、まだ新しい、制服のようなグリーンのジャケットとチェックのスカートが掛けられていた。
「これは?」
「え…はぁ!?やだよ、こんなの!」
地下鉄とは疎遠だが、王室とは縁があるのである。そんな恰好で、エリザベス女王の前に出なければならないのか。
が、露出度の高いものやフリルのついたものよりは幾分マシかもしれないと思い直し、しぶしぶその短いスカートを下半身に当てた。
「…あ、でもこれ、ちょうどいいかも…」
「若い頃のメルセデスだな」
店の女主人が怪訝な顔をする。顔が知られている高級店でなく、普段来ない場所でよかったとグレイは思った。
「こっちは?モルセール伯爵夫人」
細かい薔薇の模様が入った青いサテンのドレスを手に取り、グレイの身体に翳す。ボディコンシャスな袖も裾も細いものだったが、肉付きの薄いグレイには問題なさそうだった。何より、深みのある青は白い肌を引き立てた。胸元にリュクスなアクセサリーを飾れば、さぞ映えるだろう。スポットライトを浴びて暗い舞台に立つ、その姿が目に浮かんだ。
「ん、じゃあこれとこれ」
あまり興味なさそうに頷き、ダックスのショート・ウォレットを取り出す。
「一回払いで」
「カードが使えるわけないだろう…」
「そうなの?」
面倒臭そうに紙幣と硬貨を数える。
「あとはアクセサリーと…ストッキングも?」
「もう、そんなの家の誰かに買いに行かせるから、いいよ。ねぇ、それよりボクお腹すいた」
運転手がいようがいまいが、高級店にいようが庶民のマーケットにいようが、グレイがよく口にする言葉は変わらない。
フィップスは服の入った袋を持ってやると、リヴァプール・ストリート周辺のカフェの看板を思い浮かべながら、先に立って歩き始めた。さて、このお坊ちゃんを連れて行くならどこがいいだろう。
「少し長いな」
姿見の前でジャケットを着せ、袖を折って印をつける。
「次は、そっちを」
フィップスが針を動かしている間に、ズボンを脱ぎ、チェックのスカートに足を突っ込む。
「これは、直さなくても大丈夫じゃない」
顔を上げると、グレイが鏡の前で乱れた髪を直しているところだった。
膝より大分高い位置にある裾から、すらりとした脚が伸びている。トン、とバレリーナのように爪先を床に付けると、スカートの襞が蠱惑的に揺れた。
思わず立ち上がって、後ろに立ち、細いウエストに手を当てた。
「動いても平気か?」
「うん」
柔らかそうな大腿が眩しい。この脚を舞台の上で晒すのかと思い、フィップスは誰にともなく嫉妬で胸が熱くなるのを感じた。
「……」
だが、その想いは、隠し通さねばならない。
「長い靴下が要るな、この辺までの」
そう言って、膝より少し上に手を触れた。身体に触れることなど、何でもないと言い聞かせるように。
「ガーターで留めるやつ?」
「いや、厚手の。そういう靴下があるだろう」
「ふうん」
靴下、靴、アクセサリー、と口の中で呟きながら、グレイは何の躊躇いもなくウエストのホックを外した。スカートはぱさりと細い足首の上に落ちた。袋に戻し、糊のきいたストライプのシャツと下着代わりのTシャツを脱ぐ。フィップスは目を逸らして、どきりと跳ねた胸を無理矢理鎮めようとした。
「後ろ、お願い」
肩の前に分けて流した髪が、青い生地の上できらきらと輝いていた。ファスナーをつまんだまま、しばらく放心したようにその背中を眺めた。
「え、上がらない?」
びっくりしたような声にせき立てられ、慌てて手を動かす。
「何、見てたの」
「い、や…」