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□for 不死蝶企画 07
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シャルル=アンリ・サンソンはようやく自分の仕事に取り掛かる時がやって来たのを知り、重い腰を上げ検事総長の執務室へと向かった。
「祭りの準備は、出来たのか」
検事総長フーキエ・タンヴィルはサンソンを見ると、ひどく芝居がかった様子で尋ねた。その傲慢な双眸はまるで、自分こそがこの舞台で行われる祭典の中心人物なのだと念を押しているかのようだった。サンソンは視線を僅かに下げ、哀れな女囚のために有蓋馬車を準備してもらえるよう、低い声で申し出た。
「命令書を一通、書いて下さるだけでいいのです。検事総長殿」
フーキエは憤慨し、椅子を蹴って立ち上がった。そして今しがた刑の決まったばかりの女囚を、大声で罵り始めた。
サンソンは黙ったままそれを聞いていた。
しかし結局、フーキエはその要請を一蹴するだけの権限を持ち合わせてはいないのだった。この問題は判事のルノーダンの助言によりロベスピエールらにたらい回しにされ、決着がつくまでに小一時間を要した。
1793年10月16日未明。
シトワイヤン達は息を潜めて、せわしなく行き交う車輪の音を聞いていた。
「裁判は、ようやく終わったのか」
「ああ、いよいよだな。お気の毒に…」
「しっ、議会のお偉方に聞かれたら、お前もコレだぞ」
女囚280号。
最後の短い休息のために、彼女はコンシェルジュリ監獄の独房へと連れ戻されていた。
独房は狭く、セーヌ河から立ち上る霧のためにひどくじめじめとしていた。失意の日々を過ごした、忌まわしい場所。それでも、溜め息を吐いて名残惜し気に中を見渡す。
彼女は黒いスカートの余る小さな椅子に座ると、義理の妹に向けて長い長い手紙を書き始めた。
*
ふと奇妙な気配を感じ、女囚280号はペンを置いて部屋の隅を見た。
「陛下」
亡霊などというものを、信じているわけではなかった。が、先に断首された夫が自分を迎えに来たのではないか、そんな気がして、懐かしむような眼差しで暗がりを見つめた。
「陛下、私の最期を見届けに来て下さったのですか」
だが、声に応えて姿を現したのは、喪服を着けた長い銀髪の男だった。
男は目深に被った帽子をつまんで会釈をすると、女囚に近付いてこう言った。
「小生はいつも不思議に思っているんだ…ヒッヒ。死期の迫った人間の中に、時々、小生達の姿が見える者がいる。何故なのだろう、とね」
「それはきっと」
女囚は冷たい手を重ね、美しい瞳に燭台の弱い明かりを浮かべた。
「あらゆる感覚が鋭敏になっているからだわ。時間の流れは止めることができないけれど、それを最大限に生かすことはできるはずですもの。この狭い独房の中でもね」
そう言うと、残された時間があまりないのを思い出し、再びペンを走らせた。
しばらくして、彼女は再び尋ねた。
「この手紙は、エリザベートの元に届けられるかしら。彼女はこれを、読むかしら」
男は黙っていた。
女囚は傾げた小さな頭を悲しげに俯かせ、しかしきっぱりとした声でこう言った。
「そう、でも、この手紙は書かなくてはね。きっと私の死後、広くフランス国民に読まれるでしょうから」
一心に手紙を綴る、その微かな音だけが、薄暗い独房の中に響く。
書き終わると、女囚はしばらく白い手を震わせてその手紙を眺めた。
この世に残すことのできたものはこの手紙のほかに何があっただろうと、自分の人生を振り返った。
銀髪の死神は彼女に歩み寄り、そっとその肩に触れた。殺風景な部屋の中で、彼女の周りにだけ微かに花の香りが漂っていた。
「少し、休むといいよ。ヒッヒ」
彼女は頷き、冷たいベッドに横になった。シテ島は静かに、夜明けを迎えようとしていた。
*
(はい、綺麗になったよ。…ヒッヒ)
『出来栄え』に満足し、にやりとしながら黒い棺の蓋を被せる。身寄りのない遺体は、明日埋葬人が引き取りに来て無縁墓地に埋められることになっていた。棺のほうを持って行くのが普通だが、遺体のあった安宿の主人が一刻も早くどこかへやってくれなければ困ると言い張ったため、警察が一通り調べた後アンダーテイカーの元へ運ばせたのだった。
バスタブに湯を張り、喪服を脱ぐ。頭の上でまとめた髪から一筋が垂れ、湯に浸かった。一つ一つ解すように、冷たい指の関節に触れる。
目を閉じると、あの朝の記憶へと闇が繋がった。
彼女が口にしたブイヨン・スープの皿。死刑執行人サンソンに縛られた細い手首。ギロチンの刃の邪魔にならぬようにと、無惨に切られた髪の束。
短い髪に寒冷紗の帽子を被せ、彼女は粗末な馬車で革命広場へと連れて行かれた。最期の微笑み、飛び散る鮮血、見物人の歓声。
そう、彼女の魂を引き剥がしたのは、ジャコバン・クラブの過激な若者達でもなければ、民衆を湧かせる鋭いギロチンの刃でもない。…
「アンダーテイカー!お邪魔するわヨ」
甘ったるい声と共に飛び込んできた一陣の風が、湯気を蹴散らし、追憶を中断させる。
「入浴中だなんて〜!アタシってば、グッドタイミング過ぎじゃない?」
「浴室で『狩り』をしたことは多いけど…」
湯を滴らせながら立ち上がると、グレルは「きゃー!きゃー!」と喜びの声を上げながらも、目を覆って後ろを向いた。
「バスタイムの死神の来訪は、嫌なもんだねぇ。ヒッヒ」
「ちょっと、アタシが訪ねて来てあげたのに、嫌とは何ヨ!」
後ろを向いたまま、手を握りしめる。
「抱く約束はしたけど、彼女ヅラはするなって、そう言いたいワケ?」