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□for 不死蝶企画 08
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 フラッシュバックは、何らかの出来事がきっかけで不安や恐怖を伴う過去の感情や記憶の一場面が突然蘇り、動悸その他、様々な症状を引き起こす情動反応であり、通常、その記憶は時間が経つにつれて鮮明なものとなる。



 隅田川浪五郎は、幕府より発行された現在のパスポートの第1号―当然写真などはなく、自分の貌かたちの記載された紙であった―を持って、冬の横浜港を出発した。

 1866年の12月であった。

 浪五郎は日本帝国一座を率いる曲芸師で、紙で折った蝶を扇の風で舞わせる「胡蝶の舞」を得意としていた。一匹が二匹になり、二匹が三匹になり、紙の蝶はまるで野辺に遊ぶ本物の紋白蝶のようにひらひらと舞台を飛び続ける。浪五郎らはダイナミックな西洋のサーカスとは異なる繊細かつ精緻な芸で観客を魅了し、アメリカ、イギリス、フランスなどで次々と公演を成功させた。

「…その『胡蝶の舞』を真似て、長く飛ばせた方が勝ちってことにしないか」

 アロイスは笑って、常にウェーブの完璧な金髪の巻き毛を手でさらりと流した。

 草いきれのするファントムハイヴ邸の森では、蜘蛛が細い糸を吐いて木から木へと糸を張り巡らせていた。

 アロイスとシエルは、先程から様々なゲームを使って勝敗をつけようとしていた。が、ゲームなら負け知らずのシエルが、この日は何故かアロイスを相手に引き分け続けていた。時計の針はディナーの時間が近いことを表していた。いい加減、けりをつけてしまおう。

「わかった」

 シエルはセバスチャンに紙の蝶を折らせ、扇を二本用意させた。

 森の中では蜘蛛が足場にした糸を切り捨てながら、粘液の光る横糸を規則正しく繋げていた。

「負けた方には、馬の糞を100個投げるんだ、ふふっ。クロード、合図を」
「かしこまりました」

 クロードは扇を構えた二人の間に立つと、紙の蝶を両手でつまみ、宙に向かって弾いた。

「くっ…」

 アロイスの方に、分があるかと思われた。蝶はまるで蜘蛛の網を嫌がるかのように、アロイスの扇からひらひらと逃げ続けた。

 蝶を目で追いながら、アロイスは考えた。

(そう言えば…オレはこの「胡蝶の舞」を、どこで見たのだろう…?)

 記憶の中には確かに、袴を着け、神妙な表情で蝶を扇ぐ浪五郎の姿があった。

 が、生まれた年を考え合わせてみれば、自分はその舞台を見たことなどないはずである。

(あっ…)

 突然、アロイスの手が止まった。

 扇の風が消え、紙の蝶はゆっくりと床の上に落ちた。



 蜘蛛は少しずつ、粘る糸を吐きながら放射の中心へと向かっていた。

「僕の勝ちだな」

 シエルは扇で自分の蝶を受け止めると、それをセバスチャンに渡し、アロイスに近付いた。

「…ああ」

 アロイスは我に返ってシエルを見、にこやかに笑った。

「…よし、シエル、約束の罰ゲームだ!」
「え゛っ…いや、それは…」
「クロード!馬の糞を100個持って来いよ!」

 命令を聞いて、クロードはややたじろいだ。

 それがアロイスにぶつけられた後、身体を洗ってやるのは自分の役目である。

 シエルも考えた。気の変わりやすいアロイスのこと、途中で腹を立てて自分に投げ返してくるかもしれない。いやそれ以前に、そもそも、掴みたくない。

 セバスチャンも思った。そんな大惨事の後片付けをするのは御免だ。

「何ぼさっとしてるんだ、早く持って来いよ!」
「イエス、…」
「クロードさん」

 セバスチャンはクロードに何か耳打ちし、シエルに大丈夫ですよと目配せをした。

「…承知した。かたじけない」
「いえ、ファントムハイヴの執事たる者、この程度の…ともかく、準備を致しましょう」

 二人の黒い背中は、階下へと消えて行った。



「…いくぞ」
「ああ!クソまみれになってやる!」

 何故か楽しそうなアロイスを全く理解できないと思いながら、シエルはセバスチャンが持っている木箱の蓋をずらし、手を入れて丸い塊を探し当てた。

「そらっ…!」

 塊がアロイスの顔に向かって一直線に飛ぶ。覚悟を決めていたはずのアロイスは、しかし、思わず目を瞑って顔の前に手を翳した。

「…っ!」

 受け止めたそれの感触は、想像していたよりもずっと固かった。

 アロイスは不思議に思いながら、目を開けて手の中のものを見た。

「…何だ?これ…」




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