Rose branches
□Rose branches -24
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紫に変わってしまったその瞳は、満足と後悔をもたらした。
忘れる、ということは、基本的にはあり得ない。
アーリーモーニング・ティーに始まるこの国の毎日の習慣も、それを運ぶ前、暗いうちから行う執事としての仕事も、悪魔である自分は決して忘れない。
主人の顔も勿論、忘れるはずはない。
心の中に浮かぶその顔は、オルティジアの泉に映っただろうアルフェウスの姿のようにくっきりとして、どこか憂いを帯びている。
その顔に最期まで消えない刻印を残したことを、セバスチャンは少し後悔していた。
つけた場所が目立つところであれば、契約書はよりいっそう強い執行力を発揮する。が、むっとするような血と欲のはびこる地下から霜天の下へ連れ出したとき、自分が美しいものをひとつ、失ってしまったことに気が付いた。
今まで、自分がエモノにつけた印に支配の喜びを感じることはあっても、辛いなどと思うことはなかった。シエルが眼帯を外すと、どうしても気になる。気になるがためにより主人のために働きたいと思うのであれば、それはやはり大きな執行力を持った、ということになるのかもしれないが、本来ならその幼い顔に並んで輝いているはずの深緑と青を見るたび、やるせなかった。
忘れたわけではない。が、契約する前の顔をもう一度見ておきたい。
「何だ」
シエルはナイト・ティーのカップの向こうで深刻な顔をしている執事に、怪訝な声で問いかけた。
「いえ…」
空になったカップとソーサを受け取り、僅かにネクタイを直す。
「嘘を吐くなと、言ったはずだ」
「言葉を濁すのは、嘘ではないと思ったのですが」
「じゃあ何故言葉を濁したか、話せ。今日は懺悔の火曜日だからな」
忘れる、ということはあり得ないのだが、特別何かをするわけではないその祝日は、記憶の空漠の隅に追い遣られていた。
熱心なカトリック教徒であれば、今頃街でマルディグラを祝っているに違いない。
「懺悔…ですか」
「懺悔なんて、したことがないだろう?聞いてやる」
シエルはベッドに座り直し、紫の瞳を細めて微笑んだ。
セバスチャンはその前に跪くと、そっとシエルの顔に手を翳した。
「…っ」
「申し訳ございません」
右眼に微かな痛みを感じ、立ち上がって鏡を覗き込む。
「あっ…」
先程まであったはずの契約書が跡形もなく消え、碧海に緑が沈んでいた。シエルは驚いて、角度を変えてその色を確かめた。
「何を…」
「ご安心下さい、一瞬消しただけ…」
「すぐに戻せっ!」
鏡を置き、険しい表情で燕尾服の襟を掴む。
「坊ちゃん?」
「早くやれ、命令だ!」
「わかりました」
セバスチャンが手を翻すと、右眼に再び軽い痛みが走った。シエルはほっとして、ベッドに座り直した。
セバスチャンは襟を掴まれたままだったため、よろけてベッドに両手を突いてしまった。
「…っ、坊ちゃん、懺悔には罰が与えられないのでは」
「これが懺悔か?何故…こんなことをした」
「…私と契約する前の坊ちゃんのお顔が、見たいと思ったのですよ」
「忘れたのか」
「いいえ、忘れるはずはございませんが」
「じゃあ、もう、するな。…お前との印が消えるなんて…」
黒い胸の中で、小さく呟く。
「…申し訳ございません」
シエルを腕の中に抱いたまま、セバスチャンはそう囁いた。
契約書のない瞳は、美しく純粋な輝きを宿していたが、さみしかった。
二度とこんなことはするまいと、心に浮かぶ主人の瞳にもそっと、自分の印を刻む。
「…確かに、懺悔には罰を与えられない。代わりに褒美をやる」
「…どんなご褒美ですか?」
「お前の、欲しいものを」
黒いネクタイに手をかけ、不敵な微笑みを浮かべる。
紫に変わった瞳は、忘れられない夜の始まりを告げていた。
END
<後書きがあります…!>