Rose branches
□Rose branches -27
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‘手袋の距離’
ひんやりとしているはずの朝は、一双の手袋の向こう側にあった。
硬質の白磁をまばゆく映すクリストフルの銀のトレイ、重厚なドアノブの金色、まだ熟さない春の風に吹かれる寝室の窓辺。
「おはようございます、坊ちゃん」
羽根枕に品よく広がった、青みがかった柔らかな黒を眺める。
悪魔である自分にとっては、温冷などさして気にすることでもない。が、主人の布団を持ち上げたときに感じるホットミルクのような温もりは、やはり特別だった。手袋をしていても、掌に届くように思える。
「ん…」
シエルはセバスチャンのほうを見ようとして、ふと首を押さえた。
ベッドからはなんとか身体を起こしたものの、俯いたまま顔をしかめている。
「いかがなさいましたか」
「…寝違えた」
おやおや、と、シエルの手に自分の手を重ねる。
「私の魔力を使ってよろしければ、すぐに治して差し上げることも可能ですよ」
「う…」
こんなことで、セバスチャンの力に頼りたくはない。が、大げさな膏薬など貼って一日過ごすのも気が重い。
「…わかった。治してくれ」
「御意」
手袋を外し、ポケットに仕舞う。
静かに息を吐いて、白いうなじに手を翳す。
「……」
痛みはじんわりと消えていくようだった。魔力と共に伝わるらしい、微かな冷気に息を飲むと、肩にそっと布団が掛けられる。
「お寒いのでは?」
「平気だ」
「寝違えるだなんて…坊ちゃんは、寝相が悪かったことがありませんからねぇ、一人でお休みのときも、肩に力が入っているのでしょうか?」
「そんなわけ…!大体今の『も』は何だ!」
「ですから、肩に力が入っているのですよ。私と寝ているときに」
それは緊張しているからだ、とは言えない。布団を掴んで、唇を噛む。
「あんなに、乱れたお姿をお見せになった後でも“Full of grace”?…それとも」
「お前、僕が今動けないのをいいことに…くっ」
“Tuesday 's child is full of grace…”
そのマザーグースの一節とは関係ないだろうけれど、確かに、寝相が悪くてベッドから落ちたなどという経験は一度もない。キングサイズのベッドでは、落ちるほうが難しいのかもしれなかったが。
「お前は夜通し、そんなことを観察しているのか」
「見飽きませんからね」
「……」
もう僕の横で寝るのは禁止だ、とは、やはり言えず。
「セバスチャン…ッ、変な触り方をするな…!」
「ふ…痛むところがないか、確かめているのですよ」
セバスチャンはしばらく力を当てた後、もう大丈夫だろうとうなじをくすぐった。
そのままシエルの身体を抱いて、枕に倒れ込む。愛しい首筋と背中には、いつものしなやかさが戻っていた。
「ん…っ」
シエルの唇の温度。それは早朝、布団を持ち上げたときに感じるそれより、もっと特別で、もっと温かい。
ちゅ、くちゅ、とわざと音を立てると、小さな主人が必死に自分の肩を掴んだ。
「ん…はぁっ…、朝から、何だ…っ」
「そんなに暴れられたら、無理にでも押さえつけたくなりますよ」
「……!」
「嗚呼、この枕のせいでしょうか?首を痛められたのは…」
「違…うっ…、枕は悪くない…」
お気に入りの枕であることはよく知っているはずなのに、わざと意地悪を言う執事が憎らしい。
「枕を、庇われるだなんて」
密着した身体から、微笑の振動が伝わる。
「妬けますね」
「…っ、物にまで、嫉妬か?」
「ええ、朝一番に口を付けられるアーリーモーニング・ティーのカップにだって、嫉妬していますよ」
「馬鹿馬鹿しい…ティーカップも枕も、決まった時間にしか使わない。お前はいつも傍にいるんだから、いいだろう」
「それは、そうですが…」
傍にいても、常に手袋の距離が二人を隔てているのに。
「不満か?」
手袋を外す間でさえも、もどかしさを感じているのに。