Rose branches

□Rose branches -32
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 冷房の効いた車内からは、無音の外の世界が随分遠くに感じられた。

 口まわりのふさふさとしたミニチュア・シュナウザーが、グランジュ・ブルームズ・ホテルの黒と白の階段で大きな蝶を追いかけて飼い主を困らせている。大英博物館のファサードにはまだ観光客が出入りしていて、神話の時代を思わせる円柱の前で、ノースリーブの服を着たブロンドの女性二人が写真を頼んでいる。

 シエルの通う学校は、昨日から夏季の休暇に入っていた。車が景色を追い越すたび、休暇が実感をともなってくる気がした。



『子供が幼くして命を落とした場合…埋葬する前に、掌に名前を書いておくのだそうですよ。そうすれば生まれ変わったとき、またその名前を握っているので、その子だとわかるとか』



「この間の話…」

 右手の痣をちらりと見、運転席に視線を移す。
 セバスチャンはちょうど、左折のために窓の外を確認したところだった。

「この間、ですか?」

 二人を乗せたベントレーは、夏の夕暮れが迫るクラーケンウェル・ロードを颯爽と走っていた。もう少しすればセバスチャンの肩越しに、セント・ジョン教会の十字架が見えてくるだろう。

「…大英博物館のミイラを、見たことがあるか」

 シエルは自分が先程から、右手を見るとき以外はほとんど左側の景色しか眺めていないことに気付き、反対側に視線を泳がせた。

 車は一度グレイズ・イン・ロードとの交差点で停車した。セバスチャンは横断歩道を渡る人々が動き出す前の一瞬を狙って、シエルに口付けた。

「んっ…」
「…ミイラになる前のお姿も、拝見したことがございますよ」

 形の良い唇は、よくそんな冗談を言う。紅茶色の瞳に穏やかな微笑を携えて紡ぐ言葉は、全てが嘘とも思えず、しかし本当であると鵜呑みにするには突飛過ぎた。

「…お前のユーモアは、あまり紳士らしくないな」

 右手でセバスチャンが離した唇に触れる。微かに香る自分のSTORYの中で、手の痣が何かを訴えているような気がした。

「紳士だなどと、おこがましい。私はあくまで、」

 言いかけて、ふと口を噤む。

「何だ。執事…か?」

 セバスチャンは真顔で、シエルのほうを振り向いた。
 信号は既に変わっていた。発進が一拍遅れ、後続のバンがクラクションを鳴らした。

 アクセルを踏み、視線を戻す。

「…何故、執事と…?」
「執事っぽいだろう。お前は…僕を『坊ちゃん』と呼ぶし、スウィーツの準備も…僕が泊まった日は、衣類をきちんとベッドの脇に揃えて、着替えまでさせてくれる」
「そういえば、今は一人でお着替えをされているのでしたね」
「5歳のときから、そうだ」
「そうですか」

 おかしそうに口元を歪めたセバスチャンを見咎め、シエルは黒いスラックスの大腿に手を置いた。

「何がおかしい」
「…っ、事故を起こしますよ」
「それはさっきからずっと心配している。お前、何故わざわざ左ハンドルの車を買ったんだ」

 ヨーロッパの他の多くの国と違って、イギリスでは車両は左側通行である。よって車は右ハンドルが主流だが、セバスチャンの運転するベントレーは違っていた。

「いえ、このほうが…落ち着きますから。ところで、ミイラの話でしたか?」




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