Rose branches

□Rose branches -38
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「郷に入っては、郷に従えと申しますので」

 以前にも、そんなセリフを聞いたなと思った。



 殺風景な階下の一室は、海底に沈んだままの船の小部屋のようで、僅かな光によって作られた黒い影だけが静寂の中に揺れていた。

「わざわざ人間の真似を、しているのか。馬鹿な奴…」

 後ろ手にドアを閉め、寝台に歩み寄る。新しい影が、ナイトテーブルに置かれた時計の上を横切り、元々あった影と重なる。しばらく抱き合ったあとで、短い口づけを幾度も交わす。

「眠らない夜は、退屈だろう。…別に、人間と同じようにベッドにいなくても、夜の間は好きなところへ行けばいい」

 セバスチャンが屋敷に来てもう三年以上になるが、夜中にベルを鳴らして来なかったことは一度もない。完璧な執事にとっては当たり前のことかもしれなかったが、眠る必要がないのに忍耐強くこの部屋で朝を待っていることが、シエルには不思議だった。

「好きなところ、ですか?」

 熱の点った赤い瞳が、濃い縁の奥から自分を見下ろす。

「それは…毎晩、お邪魔してもよい、ということでしょうか?」
「…っ、僕を睡眠不足にするつもりか」

 会話が、先程から肩を上下している指先が、胸の内をかき混ぜてゆく。今夜は主導権を握ろうと自分からこの部屋にやって来たのに、その行為すら操られていたのではないかと思える。
 黒い襟元を軽く押しのけ、セバスチャンの上で夜着を脱ぎ捨てる。冷たい空気が、背中を押した。

「常にお傍にいるのでなければ、万が一の際、つとめを果たせないでしょう?」
「それは、そうだが…」

 ネクタイを取り、シャツのボタンを開けようとした手をふと止めて、セバスチャンは尋ねた。

「坊ちゃんの寝室へ、参りましょうか?」
「…いい」
「よろしいのですか、このような場所で」
「場所は、関係ない」

 その言葉を、執事は気に入ったらしい。

「関係ない…」

 口元を緩めそう繰り返して、自分が今まで寝ていたところにそっとシエルを横たえる。

「私も、場所は関係ありません」
「んっ…」
「どこにいても、貴方のことが気にかかるのですから…せめてお傍にいたい」




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