Rose branches

□Rose branches -40
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 『1886年X月X日
 ラテン語に一応の成果有り。
 乗馬は未だピアッフェを習得せず。

 来客特になし、電話一件、アクスブリッジより。』

 『1887年X月X日
 オーヴェルニュから取り寄せたサンネクテール・フェルミエを晩餐に供す。主人の口に合った模様。

 郵便二通、電話一件、ブライトン夫人より。』



 鮮やかなブルーのギロッシェ・エナメルに金の蝶番のついた箱から、少し深い群青色の小さな本を取り出す。使い始めて四年は経つが、表紙の天鵝絨は少しも傷むことがなく、ページの終わりはまだ見えそうになかった。

 書き記したところで、思い出をこのファベルジェのエナメル箱程美しく保存できるわけではない。自分の記憶のほうが、余程鮮明で、正確である。そしてまた19世紀中頃まで各所で行われていた英国の悪徳たる動物虐待の遊戯より血生臭い自分達の戦いの一幕は、言語化し、記号化し、丁寧なペン先に乗せた瞬間全く別のものに変化している筈であった。

 人間が日記をつけるのは、人間が有限であるからに外ならない。

 悪魔である自分には、本質的に必要のないものであるのに違いなかった。
 にも関わらずこうして毎晩、ウェストン校青寮寮監に扮している間も欠かさず日記をつけているのは―…。

「はい?」

 ノックの音に、セバスチャンは振り返ってドアのほうを見た。
 開けられるより先に、で外に立っているのが主人であることは気配で察せられる。

「僕だ」
「どうぞ、シエル・ファントムハイヴ君」

 シエルは緊張したような足取りで入って来、少し不機嫌な顔で部屋の中を見渡した。やがて碧い視線は、ランプの下の本と三つ穴の羽根ペンの上で止まった。

「寮監日誌か?」
「いえ、執事としての日記ですよ。…タナカさんに、つけたほうがよいと教わったのです」

 近付いて手に取ったシエルの顔からは不機嫌さが消え、代わりに新しい玩具を見つけた子供の瞳の輝きが浮かび上がっていた。単純に喜ぶだけでなく、僅かに値踏みするようなその視線。

「中を見ても?」
「どうぞ、ほとんど貴方のことしか書いていませんから」

 途端にシエルの表情が変わり、本はわざと乱暴にランプの下に戻された。

 セバスチャンは笑いながら、日記を持ち上げ、手の甲で軽く叩いた。

「ご覧にならなくて、よろしいのですか?」

 自分がシエルをどう書いているのか、気にならないのか―…そんな響きを笑いの下に感じとり、シエルは少し顔を赤らめて横を向いた。

「別、に…」
「では、用件を伺いましょうか、シエル・ファントムハイヴ君?」

 入学のために自分が切り揃えた、青みがかった黒髪を両掌で撫でる。

「寮監の部屋に入るのに、『僕だ』はいけませんね…名前と部屋番号、用件くらいはおっしゃっていただかないと」
「う…るさい、お前、そもそも何で寮監になったんだ!ラテン語の教師にでも、なればいいものを」
「このほうが、長く共に過ごせるではありませんか?」

 セバスチャンは溜息を吐いたシエルの手を握り、強く引き寄せた。

「わっ…」
「昼の女神<ヘーメラー>と夜の女神<ニュクス>のように、一瞬しか一緒にいられないのではあまりに…それにウェストン校ほどの伝統ある学び舎で教鞭をとるには、それなりの経歴が必要ですからね。まあ、そんなものはどうにでも出来ますが…ともかく寮監のほうが、生徒達の内情を探るには適しているでしょう?」
「し、初日の成果は」

 そう言われてセバスチャンはふと手を離し、床の上にひざまづいた。

「申し訳ありません、今日のところはまだ、何も」
「…いい。こっちもまだだ。P4だのYだの、この学校にはわけのわからないものが多すぎる」

 掌で立てと命じ、シエルは寄宿生の部屋にはない応接用のソファに腰掛けた。セバスチャンは少量のミルクで仕立てた紅茶をトレイに乗せて運び、執事に戻って恭しく給仕をした。

「ずっとガヴァネス付きだった坊ちゃんは、これだけの数の同年輩の男子と行動を共にするのは初めてでしょう?」
「…まあ、そうだが…」
「マクミラン以外とは、誰か仲良くなりましたか?」
「仲良く、なんて…」
「潜入捜査なのですから、ある程度は親しくなることも必要ですよ…尤も翡翠の獅子寮には、逞しい若者がたくさんいるようですから、坊ちゃんなど格好の餌食かもしれませんが…ね」
「…っ、どういう意味だ」




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