Rose branches

□Rose branches -21
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<一匹の鬼が厩舎の前で雨闇を遣り過ごしていた。
鬼と云っても赤鬼青鬼と云った聊か剽軽さを感じる様な存在ではなく、一種の負の霊体とも云うべきものだった。が、霊体でも節分の豆で追われるのが嫌なのには違いなかった。
鬼は揺曳しながらイギリスの夜に辿り着いた。雨止みを待っても、如何するという当てはなかった。>


「ドラジェ、でございますか?」

 セバスチャンは造り付けになっている食器棚に白い皿を直しながら、入り口のシエルを振り返った。

 階下へ来ては、いけませんよ。

 そんな諌止は小さな一歩に軽々と乗り越えられる。セバスチャンは手にした皿を洗い籠に戻して、シエルのほうへ歩み寄った。

「行事だ」

 アームバンドを外して袖を伸ばし、主人の前にしゃがむ。

「ドラジェを、撒く…?」
「いいや」

 毎年2月3日に、自分の故郷では豆撒きをして邪を払う。
 タナカはシエルにそう教えて、元気よく豆を撒かせたあと、年の数だけ食べさせていたのだが、いつしかそれがドラジェを食べる日、という甘い行事に変わっていたのだった。

 今日は、ドラジェの日だ。

 そう言うシエルの前で、セバスチャンは、ふむ、と考えながら解けかかっているリボンタイを直してやった。

「夜にご年齢の数だけドラジェを召し上がるというのは、少々多いかもしれませんね」

 結婚式で配られるドラジェには、「幸福」や「健康」といった意味がある。無病息災を願う意味で節分の豆と似ているが、食べ過ぎになってしまっては逆効果だろう。

「じゃあ、他のものでもいい」
「…わかりました。ご用意致します」

 シエルを見送りながら、セバスチャンは肩を竦めた。

 ドラジェ、遠ざかる肢体、小さな臀部、ねだる顔。
 オーバーラップする心象に、歪む口元を押さえる。


<此処に居れば、豆の音は追いかけて来ない。
安心すると、雨天雲脚の下、此国では人々がどんな暮らしをしているのだろうかと覗いてみる気になった。
厩舎や温室や花壇が島嶼の様に控えている中に、城の様な屋敷があった。屋敷は静かだったが、夕餉の時刻が迫ると食堂らしき部屋に明かりが灯され、人々の話し声が聞こえてきた。>


「坊ちゃん、豆撒きの準備が出来ました」

 食後の紅茶を飲み終えたところで、セバスチャンが厨房から戻ってきた。
 二つの器を乗せた銀のトレイを、恭しくシエルの前に置く。器はマイセンクリスタルのグラスで、赤いほうには炒った大豆が、青いほうには金平糖が入れられていた。

「お召し上がりになる分と、鬼を払う分でございます」
「撒くのは、いい」

 シエルはグラスのエングレーブに手を触れながら、少し目を逸らして言った。

「折角ですから…」
「では、タナカに撒かせてやれ。僕は…いい」

 邪を払って、お前が出て行ったら、困る。

 そんな声が聞こえたように思ったのは、過信というものだろうか。

 セバスチャンは、花模様をなぞる手にそっと自分の手を重ねて囁いた。

「…では、金平糖だけお召し上がり下さいませ」
「…」
「お口に入れて差し上げます。福が来るように」
「…っ」

 手袋を外し、グラスの中身を持ち上げる。シエルは観念して目を閉じ、僅かに唇を弛緩させた。

「ん…っ」

 唇に触れたのは、指よりも柔らかいものである。

 セバスチャンが咥えた甘い一粒を舌で受け取り、唇を塞がれながら味わう。

「…はぁっ…」
「もう一粒」

 目を開けたシエルの前で、唇の月牙に白い金平糖を咥える。

(…11…10…9…)

 頭の中で、残りの数を数えた。

 口付けを交わしながら、過去の一つひとつが慰められている、そんな気がした。




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