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□for 不死蝶企画 03
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 白いベッドは秋の弱い日差しを受け、陰鬱な影を抱えて並んでいた。一番窓際のベッドの脇の、薬やタオルの収められた棚の上には、代赭色の菊が飾られていた。見舞いには向かないその花を、無理に持って来させたのは、その横で目を開けてつまらなそうに天井の模様を眺めている当の怪我人だった。

 怪我人は世の中がすっかり嫌になっていた。優れた運動能力を生かし、スタントマンとして、注目されている監督の映画に何本も出演していたのだが、突然不幸に襲われたのである。無茶な飛び降りは、彼の足の骨を容赦なく砕いた。完治しても、もうスタントの仕事はないと思われた。そればかりではなく、入院中に恋人を主演の俳優に奪われていた。世間ではきっとセンセーションが巻き起こっているだろう―『銀幕のヒーローとヒロイン、運命の愛』などとうたって。

(もう、どうでもいい)

 骨折で安楽死というのは聞いたことがなかったが、彼はそれを望んでいた。もはや人生において希望はなかった。自分は、影に咲いて落ちてしまった花なのだ。



 一人の見知らぬ少年が彼の病室を訪れたのは、菊が飾られた翌日の午後だった。

 少年は落馬のために腕に包帯を巻いていた。リハビリのつもりで、そこらにあった紙を飛行機の形に折り、窓から外にいる見舞いの友人に向けて飛ばしたのだが、あらぬ方向に舞い、ちょうど二つ下の病室の窓に飛び込んだのである。

「すみません、僕は、604号室のシエル・ファントムハイヴです」

 中にいた患者たちが一斉にシエルの顔を見た―ただ一人を除いて。

(ここは個室じゃないんだな)

 シエルは窓のほうへ近付くと、足を吊られて寝そべっている黒い髪の男に声をかけた。

「すみません」

 返事はなかった。が、眠っているのではなかった。男はシエルが飛ばした飛行機を広げて、顔の上に翳していた。

「あの、それは僕のなんです。外に飛ばしたのですが、風でこちらに舞い込んでしまって」
「歴史の勉強をしていたのですか。年号が間違っていますよ」

 黒髪の男は嘲笑うように口角を上げ、紅い瞳を細めた。

「…どうも」

 シエルは憮然として、紙に手を伸ばした。黒髪の男はからかうように、それをシエルの手から遠ざけて言った。

「こんな歴史では、方向を見失うのも無理はないですね」

 嫌な、奴だ。

 シエルは辺りを見回して、薬袋の上にその名前を見つけた。

「セバスチャン・ミカエリス…さん?人間の歴史なんて、誤りの連続なのでは?」
「…」
「…。このファントムハイヴの病院から、他所へ移っていただくこともできますが」

 脅すつもりでそう言うと、セバスチャンはふと真顔になり、シエルの顔をまじまじと見つめた。返してもらえるか、と再び手を伸ばしたが、セバスチャンは渡さず、ペンを取って元紙飛行機の裏にある薬の名前を書いた。

「モルヒネ…?」
「…貴方は、この病院の中を自由に歩けるのですか?」
「ええ、まあ」
「でしたら、誰にも気付かれないように、それを取ってきていただけますか?薬の保管室は、ご存知でしょう」

 シエルは紙を受け取ると、手元とセバスチャンの顔を交互に見た。

「眠れないんですか?」
「…ええ」

 セバスチャンは一度言葉を切り、シエルから視線を外した。

「もっと長く眠りたいんです」
「でしたら、担当の医師に言えば済むことでしょう。何なら僕から…」
「駄目なんです」

 セバスチャンは強い口調で、シエルの言葉を遮った。

(何だ、こいつ)

 シエルは唖然として、セバスチャンの不機嫌そうな顔を眺めた。

「…まるで、子供だな」
「…」
「大方、はしゃいでてメリーゴーランドか何かから滑ったんだろう?その足」

 シエルは自分が落馬したためにここにいることも忘れて、思わずそう言った。

「…馬に、乗ろうとしたんですよ」
「乗ろうとした…?」
「走る鉄道から馬上に、飛び移ろうとしたんです」
「はぁ?何だってそんな…」

 呆れながら、シエルはふと、枕元に置かれている写真立てを見た。そこにはシエルもよく知っている、有名な女優の写真が収められていた。彼女の肩に手を回して微笑んでいるのは―雰囲気が余りに違うため、よく見なければわからなかったが―セバスチャンだった。

「お前、映画俳優なのか?」
「いえ…、私はあくまでスタントですから」

 セバスチャンは窓のほうへ顔を向けると、小さな声で呟いた。

「元スタント…ですよ。この紙が元紙飛行機だったように、ね。今は、もう…」

 シエルは黙ってその横顔を眺めた。不意に、菊の香りが鼻腔に忍び込んできた。

「…わかった。ちょっと待ってろ」

 シエルは紙を持って、部屋を後にした。その脳裏に、寂しげな菊と瞳の色を焼き付けながら。





「ほら」

 小一時間ほど後、シエルは手に錠剤の入った小さな瓶を持って、再び304号室を訪れていた。

「ありがとうございます」
「もう、飲むのか」
「ええ、早く眠りたいですからね…。すみませんが、窓を閉めていただけませんか?」
「わかった」

 シエルが目を離した隙に、セバスチャンは瓶の中身を半分ほど口に入れて水を流し込み、瓶を枕の下に隠した。

 シエルはベッドに腰かけると、包帯を巻いたセバスチャンの足を優しくさすりながら言った。

「眠るまで、何か話をしてくれ」
「…普通、起きているほうが話をしてくれるのでは?」
「お、お前、映画業界にいたなら、何か面白い話の一つや二つ知っているだろう!」
「我が儘ですね」
「どっちが…!薬を勝手に取ってくるなんて、違法行為だぞ!」

 セバスチャンは遠くを見るような目をすると、手を伸ばしてシエルの手を求めた。これが自分の感じる最後の体温なのだ、と思った。この世への置き手紙に、話ぐらいはしてやってもいいかもしれない。喉の奥で薬が溶けてゆくのを感じながら、ゆっくりと唇を動かした。

「昔々、あるところに一人の少年がいました」
「昔って、いつ頃だ」
「さあ…ヴィクトリア女王が夫に死に別れ、喪服を着けていらした頃ですかね?」
「意外と近代だな」
「話の腰を折るなら、止めますよ。…少年は大きなお屋敷に住んで、何不自由なく暮らしていました。しかしある時悪い奴らに両親を殺され、さらわれてしまいました。少年は一ヶ月ほど彼らに嬲りものにされました」
「そんな話をよく、初対面の子供にする気になったな」
「少年は彼らを憎みました。そして犠牲を捧げ、悪魔を召喚しました。悪魔は少年が死んだとき魂を貰う約束をし、その場にいた悪党を全員殺しました」
「絶対病院でする話じゃないな」
「悪魔は少年の執事となり…少年が復讐を果たすまで、手足となって…少年のことを…」
「……セバスチャン?」
「少年の…ことを…守ると…誓い…」
「…」
「…」

 黒い睫毛が幾度か上下し―それは安らげる場所を見つけた蝶の羽のようだった―しばらくして、完全に止まった。

 シエルは何か厳かな気持ちで、その目元を見つめた。枕の下から薬の瓶が転がり出た。それを菊の花の下に置いてやり、セバスチャンの頬をそっと撫でた。

「おやすみ、セバスチャン」

 そして、花瓶から菊の花を抜き取ると、静かにその場を立ち去った。




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