Rose branches
□Rose branches -34
2ページ/4ページ
「おはようございます、坊ちゃん」
「ああ…」
カーテンを開けた時刻は、いつもより三十分遅い。シエルはセバスチャンが起こしに来るまで、熟睡していたようだった。
朝食を終え、午前中の勉強を少し早めに切り上げて、眠気を覚ますために外へ出る。
明るい庭でアネモネの蕾が、伸びをする一瞬手前のようにうなじを曲げていた。
咲いている花を選んで、手を触れる。と、トーピアリの陰から人の気配がした。
「迂闊に折らないほうが、いい」
「劉…」
「アネモネの茎には、毒が含まれているからね」
手を離し、劉のほうへ近付く。
「また来たのか、暇だな」
「いやいや、今日はちょっと伯爵にお願いがあってさぁ…」
(ここは…)
目を開けたシエルは、薄暗い室内に漂う臭気に思わず顔をしかめた。
椅子に座らされ、後ろで手を縛られている。
(僕の屋敷ではない…劉の…?)
手掛かりを探そうと凝らした視線の先で、小さなドアがゆっくりと開く。
藍色の長衫、読めないその笑顔。
劉のあとに続いて、見知らぬ髭面の男が現れる。襟に光る金の紋章が、記憶を微かに揺さぶる。
「何の冗談だ…」
「真っ赤なアネモネは、美少年の血から生まれた。我の国では、讒言によって死んだ者の血が碧い玉になったという言い伝えがある。君の血は、どっちだろうねぇ?」
シエルは顔を上げて、劉を睨んだ。
物騒なことを口にするわりに、シエルはどこも怪我していないようだった。眠らされ、縛られたようだが、身体は痛まない。
(何をする気だ…)
「取引は成立だな」
髭面の男が、二人の手下を招き入れる。
「おっと、あれが先だよ」
「ああ」
男は劉に鍵を渡し、何処かの住所を告げた。
と、左に据えられていた白塗りのクローゼットを蹴破って、藍猫が現れる。細い髪と重量のある武器が空を舞い、三人を瞬く間に叩きのめしてしまう。
「…!」
「お見事」
手を打ち鳴らして、階下から自分の部下を呼び、三人の身体を片付けさせる。
「…なるほどな」
「ごめんね、怖かったかい?伯爵」
機嫌良さげに笑い、劉はシエルの縄を外した。
武器を小脇に抱えたまま、藍猫がテーブルと茶器を運んで来て二人の前に置いた。
劉は座って、黒泥の茶壺の上から熱湯を注いだ。中身を一度茶海に空けてから、茶杯に移す。大紅袍の香りが、室内の臭気を追い遣り、ようやく気持ちを落ち着かせる。
「武器の取引か…?あいつらのバッジには見覚えがある」
「まあね」
「坊ちゃんを対価にするなど…よほどのものだったのでしょうね?」
「!!」
「…おや」
「失礼、我が主をお迎えに上がりました」
その言葉が終わると同時に、小さなドアはキャベツのように粉々になり、室内に散った。
「…遅いぞ、セバスチャン」
「ちょうど良いタイミングだったのでは?」
シエルは空になった茶杯を置き、セバスチャンが差し出したステッキをついて立ち上がった。
「この貸しはいずれ回収するからな」
振り返りもせずそう言い、ドアの欠片を除けながら、部屋をあとにする。
「赤い血は碧い玉に変わった…大紅袍も姿を変えて、半分くらいは今日の借りを返してくれると思うんだけどなぁ。ね、藍猫」
「…?」
見送る劉が、藍猫を抱き寄せて意味ありげに笑った。
光風の向こうにクライスト・チャーチが見えた。連れて来られたのは劉の阿片窟ではなく、アジトの一つであるアパートらしかった。