Rose branches
□Rose branches -02
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T.
(自分のほうが少しばかり上等だと思っている、その高慢)
(愛は与えるものだという、道徳的欺瞞)
U.
バッキンガムシャーのクレスロウで州長官をしている男が、その日の晩餐会に顔を見せていた。クレスロウは王室の御料地として畜産品などを生産しており、テンプル騎士団の時代からある古い修道院がその土地の象徴となっていた。
前の州長官から聞いた話なのですが、と彼は話し始めた。1850年頃に長官を務めていた人物は見るからに逞しく、武芸に秀でており、幽霊が出るという噂を笑い飛ばしてその修道院に泊まった。幽霊は確かに出た―自分しかいないはずの密室で足音がし、彼は眠ることができなかった。首があるはずのところを掴んだが、何もなかった。やがて足音は地下へ下り、納骨堂のほうへ消えていった。
「捕まえることができた暁には、その幽霊も王室に献上致しましょう」
一同は笑って、いや宮殿にも幽霊がいる、自分はオックスフォードで見たなどと口々に話し始めた。
話の間中、グレイは口元をひきつらせて座っていた。
ようやく晩餐が終わると、グレイは嫌がるジョンを引きずって自室に戻った。
「幽霊なんているわけないじゃん!ボクは信じないんだから!」
信じない、と言いながらも、自分の腕をしっかり引き寄せたまま蝋燭に火をつけるグレイを見て、一体どんな育て方をしたらこんな怖がりが出来上がるのかとジョンは呆れた。
「フィップスを呼んできて」
眠るまで、誰かに傍にいて欲しい。が、ジョンにそれを頼むべきでないのは、分かっている。一瞬でも一人になるのは嫌だったが、一晩中それが続くよりはと思った。
「呼んでくるから、離せ」
グレイは腕を離したが、マッチを揉み消しながら、複雑な表情で黙り込んだ。白い頬を蝋燭の炎が赤々と照らしていた。気持ちをはかりかね、ジョンは尋ねた。
「フィップスを、呼ぶんだろう?」
「う…ん、でも…大丈夫、かな」
「何が…?…駄目だったのか?昨日」
今朝の二人に、いつもと変わった様子は見られなかった。フィップスの前で女として過ごしたい、という希望は、ジョンの骨折りもあって叶えられたはずだったのだが。
「駄目じゃ、なかったけど…」
「何してたんだ?」
「…二人で、踊ってた。ずっと…月が傾くまで」
「上出来じゃないか」
ジョンはグレイの頭を撫でようとして―そんなことはしたことがなかったが、そうしようとして―ふと手を引っ込めた。
(あとはもう、二人の問題だ)
何か大事な扉を開けるつもりで、フィップスの部屋の前に立つ。
「グレイが呼んでる?こんな時間に?」
バッキンガム宮殿の奥にある二人の部屋は、他の使用人たちの部屋からはかなり離れており、装飾の色が夜に沈んだ広い廊下はひっそりとしていた。
「グレイ?」
よく知っている彼女の、あまり知らない寝室。声をかけると、中で何か取り落としたような音がした。「入って」という小さな声が響いた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
騒ぐ自分の心が静まるのを待って、一歩踏み出す。
グレイは、天蓋から垂れるドレープを束ねたベッドの上で、膝を立てて座っていた。眠るにはやや明る過ぎる蝋燭の火が、白いシャツの上の憂鬱そうな顔を浮かび上がらせていた。白夜、フィップスはふとそう思った。
「…ボクが眠るまで、ここにいてくれない?フィップスさえよければ、ここで寝てもいいから」
甘えた声は、フィップスに、忘れていた幼い頃の記憶を思い出させた。
一人で寝るのが怖いと言って、涙こそ見せなかったが怯えた顔をしていた小さな彼女。
許されないことだったが、フィップスはよく親たちに気付かれないようにグレイの寝室に入り、夜更けや朝方に帰っていた。子供だった彼にとっては、それはただの遊びだった。
今は、そうするべきなのだろうか。
迷ったが、怯えきった大きな瞳の前からは出て行き難かった。
「わかった。…俺が先に寝るかもしれないが」
「いいよ、それでも」
ロンドンの春宵は豪奢な部屋を冷たく包んでいた。フィップスはソファに横になると、脱いだ上着と毛布を掛け、余計なことを考えないように目を閉じた。
‘Night-night.’
ややおどけて、そう声をかける。
「…おやすみ」
男らしい眉に、精悍さを感じさせる輪郭、しっかりとした口元。
グレイはまるでそれらに初めて気が付いたようにじっと見つめた。
薄闇に浮かぶ横顔―まるで沈まない北欧の太陽―を眺めていると、何も怖くなかった。胸の内で、煌々と熱いものが燃えているような気がした。
その日から、就寝前にはなるべく二人の時間を作り、語らうのが習慣になった。
昼間行動を共にしていても、落ち着いて話せることはほとんどない。宮廷のこと、行事のこと、流行のこと、子供の頃のこと。
お互いと話しているときが、一番自分らしくいられるように思った。Wチャールズ、そう呼ばれるようになる前から、自分たちは一緒にいたのだ。