Rose branches

□Rose branches -07
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「それで君は本当に、自分が悪魔だと言うんだね?」
「くどいぞ」

 シエルは小さな欠伸をして、出されたティーカップを指先で押しやった。向かい合って座っている眼鏡の男は、テーブルの上に置いた録音機に時折目をやりながら、興奮した様子でせわしく足を組み替えた。

「こう見えても伯爵だ、本来なら貴殿などと悠長に話す時間はない…が、悪魔としての生は充分すぎるほど長いのでな」
「こ、光栄だよ、伯爵。もう一度、悪魔になった日のことを詳しく教えてくれないか」

 シエルは頬杖をついて、眼帯の上に掌を重ねた。

 悪魔は人間よりも記憶力が良い。悪魔になる前のことも、なったあとのことも、走馬灯のように鮮明に思い出すことができる。

 死から離れたはずなのに、死に近い気がした。

「ああ。…あれはこの長い生と比べても、長い一日だった。僕には選択肢がなかった、アロイスとハンナの契約に口を挟むことはできなかったから。自分のことなのに、自分は傍観者だった。それは少し、悔しかったかもしれない…」






「アロイス・トランシーは何故…坊ちゃんが、悪魔として甦るのではなく」


「私が人間として生まれ変わるように、と願わなかったのでしょうか。そうすれば私は魂を得られないし、私もすぐに死ぬ…一石二鳥だと思うのですが」

 1883年にベックリンが描いた『死の島』さながらの孤島は、水平線に少しずつ隠れていった。波はやや高かったが、二人を乗せた舟は何かに守られるように、あまり揺れることもなく静かに進んで行った。

「さあな」

 死の島を二度も訪れて生還した自分は、運が良いのか悪いのか。
 シエルは答えながら、灰色の空を眺めた。

 屋敷に帰ったら、使用人たちにひまを出さなくてはならない。エリザベスとの婚約解消も。それならば自分がセバスチャンと一緒に何処かへ隠遁してしまったほうが、手っ取り早いだろうか。…

「ふ…空腹が辛いか」
「いいえ…」

 悪魔として悪魔と口を利いている、そんな自分が不思議だった。そして、『人間になる』という可能性を口にしたセバスチャンも、不思議だった。

 人間は、不便である。自分もあのとき悪魔になりきっていなかったら、水の中で間違いなく死んでいただろう。

 セバスチャンが人間になる、それは考えたくなかった。何故なら―

「人間になって、どうする?」
「…貴方を、喰らうことなく生き」
「それで僕より先に死ぬというのか!」

 舟の縁に、白い水飛沫がかかった。海はいよいよ荒れ、暗い空からは激しい雨が降り出した。雨はセバスチャンにしがみついたシエルの背中を、細かく濡らした。

「許さない、そんなこと」
「坊ちゃん。…お身体が冷えます、これを」
「大丈夫だ。もう風邪なんてひかないんだろう…?」






「僕らは陸に着くまで、一言も話さなかった。考えることが多すぎて…でも、それらは沖に霞む蜃気楼のようにぼんやりとしていて、僕はただ、セバスチャンの体温を感じていた。波を渡る風とも、雨とも違うその冷たさを」
「その、死の島とやらは何処にあるんだろう?」
「さあな。ベックリンなら知っているんじゃないか」
「い、今はもう2011年だよ…。それで君達は、お屋敷に帰ったあとどうし…おや、お、おかしいな」

 録音機の点灯が音もなく消え、動きを止めてしまった。男は首を傾げながら手に取ってあちこちボタンを押した。立ち上がっていたシエルは、僅かに目を眇めてそんな男の様子を眺めた。

 と、一斉に部屋の電気が消えた。

「わっ!」
「遅いぞセバスチャン」
「申し訳ありません、渋滞に巻き込まれてしまいましたので」
「ひぃっ!?」
「馬鹿。車は嫌いだと言っているだろう」
「ふふ…オープンカーをご用意致しました、100万ドルの夜景を見ながらのドライブは、気に入って頂けるかと思いますが」
「あっ…ちょっと、君達!?待っ…」

 男は手探りでライターを見つけ、火を点した。眼前に浮かび上がる、白い指と美しい顔。

「うわあああああ!」
「失礼致します、ここから先は、有料です」
「あっ…君、伯爵、ねえ…!」

 男はしばらく腰を抜かしていたが、よろよろと立ち上がると、開け放たれた窓から下を見下ろした。香港の街には、賑やかな春の夜がたちこめていた。



END


 

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