Rose branches
□Rose branches -09
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息を吸い込むと、湿った土や苔の匂いと花々の甘い誘惑が身体の内側に広がるのを感じた。何種類もの蘭が咲く小部屋を抜けて、奥へ入る。美しい植物と、かけがえのない友人たちに囲まれた小世界。ガラス張りの温室は、スネークのお気に入りの場所だった。湿度と温度が常に保たれており、時折換気扇の音が聞こえる以外は、葉の呼吸さえわかりそうなほど静かだった。友人たちが花についた害虫を食べてくれるので、スネークは特別に出入りを許されていた。フットマンとして覚えなければならないことはたくさんあったが、やるべき事を終えて此処に来たときの充足感は何とも言えなかった。
石の上に腰を下ろし、ほっと息を吐く。肉色の包葉をたわわにつけた枝が、顔のすぐ上に垂れていた。見世物として地方を巡り、様々なものを見聞きしたが、花の名前はあまり知らない。手を伸ばしてそっと触れると、中から白い花が顔を覗かせた。
お気に入りのゲーテが、腕をよじ登ってその花を見た。
「花が好きか…?ロマンチストだな…って、ゲーテが言ってる」
人差し指で、ゲーテの小さな頭を撫でてやる。ゲーテは鋭い歯で包葉ごと一つ噛み切ると、スネークの鼻先に差し出した。
「勝手に花を摘んじゃだめだろ。…って、ダンが言ってる」
スネークはゲーテの歯の間からそれを抜き取ると、目を閉じて優しく口付けた。ゲーテはスネークに頬擦りをすると、機嫌良さそうに赤い舌を出し入れしながら、首筋を伝い、襟元へ忍び込んだ。
敏感な鎖骨の上を、白い腹が滑る。胸に身体を巻きつけ、脇腹を下へと這う。
「くすぐったい…って、エミリーが言って…」
スネークはふと、口を噤んだ。
感じているのは、『友人たち』ではなく『自分』である。
「ゲーテ…やめて…」
陰惨なサイドショーの生活を続けるうちにいつしか閉じ込めた、『自分』の意思、感情。
「あ…ゲーテ…っ」
突然の触発を受けたそれは疾風のように駆け抜け、怒濤のように心を揺さぶった。
蝕まれた皮膚に痛みを感じ、スネークは服の中のゲーテを掴んだ。
「スネーク?」
不意に聞こえた小さな主人の声に、はっと我に返る。
「気分でも、悪いのか?」「あ、いや…」
スネークは顔を赤らめて、シエルの視線から目を逸らした。
「隣に、座っても?」
「え、も、勿論、どうぞ…ってエミリーが言ってる」
「エミリーは何処にいるんだ…うわっ」
スネークは、シエルの背後から鎌首をもたげた彼女をたしなめるようにその胴体を掴むと、自分の膝の上に乗せた。ゲーテはすっとシエルの膝の上に顎を乗せた。膝のあらわなシエルは、冷たい感触にびくっと身体を引き攣らせた。
「こら。ってエミリーが言ってる」
スネークはゲーテがそれ以上悪戯をしないよう、長い尾を手で押さえた。シエルを殺せという調教はとっくにデプログラミングしているが、何故か友人たちはシエルが気になるようである。自分にはわからない、特別な香りがするのかもしれない。
シエルはスネークの膝の上に目をやり、とぐろを巻いたエミリーに押し潰されている花をつまんだ。
「あ…勝手に取ってごめんなさい…ってゲーテが言って…」
「花が好きなのか?」
「えっ…」
『自分』に向けられた言葉に、スネークは逡巡した。自分は花が好き、だろうか?
「す…好き……、って、ワーズワスが言ってる」
「ワーズワスはどこにいるんだ…おわっ」
「こ…この花何て言うの…ってエミリーが聞いてる」
「ああ、これはブーゲンビリアという花だ…これをブラジルから持ち帰ったフランスの探検家の名前から、つけられたそうだ」
「ブーゲン、ビリア」
スネークは呟いた。
花の名前を知らなかったのは、自分。教えて欲しかったのは、自分。
「『魂の花』とも呼ばれているらしい、理由は知らんがな」
「魂の、花…」