Rose branches
□Rose branches -19
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「フィップス、具合悪いんじゃないの?」
弓形の瞼の下が、ロンドン塔を覆う雪曇りの空のように黒ずんでいた。毎朝待ち合わせをしている執務室の前で、フィップスは椅子の一つに腰掛け、目を閉じていた。
「ねぇ、大丈夫?」
グレイは慌てて跪くと、蒼白い頬を手で包んだ。
「あ…あ」
「大丈夫じゃないじゃん、顔、熱いよ」
後から来たジョンが様子を察し、医師を呼びに走る。フィップスはそれから4日の間、秘書武官兼執事の職を離れ、ロンドン病院に隔離された。1889年、リヒャルト・プファイファーが病原体を発表する3年前の、インフルエンザ大流行の年だった。
5日目の朝、フィップスは看護婦に付き添われバッキンガム宮殿に戻った。
グレイはそっと公文書の山を抜け出し、フィップスの部屋へ向かった。
長い廊下の奥に、銀のワゴンを押す女官の姿があった。
「ねぇ、君」
女官はグレイに気がつくと、慌てて白い麻のエプロンを摘んで礼をした。ワゴンには湯と水の入ったジャッグや銀の盥、清潔なタオルが並んでいた。
「…それ、ボクがするから」
困惑する彼女から無理にワゴンを奪い、フィップスの部屋に入って素早くドアを閉める。女官はしばらく部屋の前をうろうろしていたが、やがて諦めたらしく、小さな足音を遠ざからせていった。
「…」
ワゴンの持ち手が、ため息で白く曇る。
誰かを看病したり、人の身体を拭いたりした経験など、勿論ない。
フィップスが病院に隔離されたとき、グレイは一緒に行くと言い張ったが、ジョンに止められたのだった。
「お前まで感染して、陛下にもしものことがあったら、どうする」
陛下の身の安全は、絶対に守らねばならない。引き下がるほかなく、グレイは見舞いに行くことも許されないまま今日を迎えたのだった。こんなに長く離れて過ごしたのは、宮殿に仕えるようになってからは初めてだった。フィップスとでなければ何故か、仕事がうまくいかない。グレイは段々不機嫌になり、ロンドンの曇り空を眺めながら鬱々とした時間を過ごした。
長年の親友であるフィップスのために、何かしたかった。それで咄嗟に女官からワゴンを奪ってしまったが、本来病人の身体の清拭など自分のすべきことではなかった。
(でも、いいよね。男同士なんだし…)
冷め始めた湯を盥にあけて、タオルを浸す。
フィップスは眠っていたが、拭いている間に起きるだろうと黒いシャツのボタンを外した。
「…!」
グレイはびっくりして、ボタンを外す手を止めた。
首元に、細い金の鎖が巻かれていた。
ペンダントトップは、三色菫が描かれた可愛らしいミニアチュールである。小さな蝶番がついており、中に写真を入れられるようになっていた。
(え…!何、これ!)
思わず誰もいない室内を振り返り、もう一度フィップスのほうへ向き直る。
女。
秘密。
贈り物。
ずっと一緒にいたはずのフィップスが、いつ、自分の気付かないうちにこんな秘密を持ったのだろう。
(…婚約した、のかも)
その三色菫は、祝わねばならないことの証かもしれなかった。しかし自分が知らなかったのは、やはりショックだった。
震える手で、ペンダントトップを持ち上げる。
(何で…)
グレイは必死に気持ちを宥めながら、こわごわ蓋を開いた。
「えっ…、これ…って」
†
「女の子みたいだ」
この言葉を聞くのが、嫌で嫌で仕方なかった。周りの誰より剣の腕も立ち、家柄も申し分ない自分を貶める唯一の言葉。
「女の子なんかじゃない」
見た目のことでは、ない。
ある貴族の館で舞踏会が催された晩、グレイは見てしまったのだった。人目を忍んで密会をする、男女の痴態を。
女は恍惚とした表情で、絶え間無く嬌声を上げていた。
あんな声が、一体この身体のどこから出るというのか。
(ボクはあんな、汚らわしい、女なんかじゃない。…)
広い襟をぴんと伸ばし、精一杯背伸びをして教会の長い通路を歩く。白い髪と白い服に、ステンドグラスの光が零れていた。
幼いフィップスはいつも、神聖なものを守るような、厳かな気持ちで後について歩いていた。
グレイの後ろを歩くのは嫌ではなかった。小さな背は視界を遮ることもない。不思議な髪は、いくら見ても見飽きなかった。‘三月の風と四月の雨が’花を咲かせる五月の陽光の下では、牧草の中で眠る生き物の柔らかな毛のように輝き、冬の暗い夜には薄墨色の夢のような微光を流していた。
「女の子みたいって、特別ってことじゃないか」
究極に聖なるものには、男も女もないとフィップスは思っていた。だがグレイは我慢ならないと言った様子で、大きく首を振った。
「女の子は、弱いんだ。それに…」
風に揺れる白鷺草の花のように、長い睫毛が上下した。
(ボクは、あんな声なんか、上げない…)