BLUE in the nest

□BLUE in the nest -36
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「わぁ…」

 銀色のクロシュを外すと、ミントンの皿の上に手作りにしては上品すぎるチョコレートケーキが乗っていた。ヘーゼルナッツのビスキュイ・ジョコンドとクレーム・オ・ブール・カフェの層にパータ・グラッセの艶やかな覆いがかかったオペラである。シエルはケーキの皿とアイスティーをテーブルの上に運び、ゆっくりとそれを味わった。部屋には自分以外に誰もいない。つい気を緩めて、口元を綻ばせる。

 水色の携帯電話を取り出して、もう一度メールを読み返す。

『一時間ほどで戻ります。冷蔵庫にケーキをご用意致しましたので、召し上がっていて下さいね』

 どうぞ、坊ちゃん。
 そう言って給仕をするセバスチャンの姿が脳裏に浮かんだ。恋をするのは初めてのはずなのに、この関係はもう随分昔に始まっていた気がする。セバスチャンと出会って以来、メリルボーン・ロードはいつ来ても異なる装いで自分を迎えた。そんな感覚はきっと特別なものなのだろうと思った。

 同じ頃、セバスチャンもテーラード・ジャケットの胸に02の黒い携帯電話を当ててため息を吐いていた。窓の外では少し強い風に木々の緑が揺れていた。屋内の人間には聞こえない風の音も、自分には聞こえている。

『わかった。ありがとう』

 そんな短いシエルからのメール。
 ありがとう、と言われない関係でいたい。シエルの世話が当然だった百年余り前のように。…

 携帯電話を胸ポケットに仕舞って、打ち合わせに戻る。仕事などどうでもよいという気分だったが、曖昧さの入り込む余地がない現代では悪魔といえどもIDが必要なのだ。セバスチャンは今‘素姓のわからない完璧執事’ではなく、ベイカー・ストリートにアトリエを構えるデザイナーだった。

 夜明け前の深い闇を幾千回も迎えたけれど、この百年ほど時の経つのが遅く感じられたことはなかった。
 シエルが再び生まれてからの十二年は、自分が必要とされるかどうかもわからなくて、ただ、ひたすら自然な再会の時を待ちわびていた。



「ただいま、坊ちゃん」
「ああ、…おかえり」

 帰り慣れた自分の部屋が今日は特別に感じられて、セバスチャンは口元を緩めた。

「ケーキはお召し上がりになりましたか」
「うん。美味しかった」
「それは、ようございました」

 ふと洗面台を見ると、見たことのない歯ブラシがちょこんと置かれていた。

 坊ちゃん?

 そう声をかけようとして、慌てて口をつぐむ。そして食器棚から小さなガラスのコップを出すと、大事そうにその闖入者を立てかけて首を傾げた。




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