BLUE in the nest

□BLUE in the nest -37
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T.

 先端だけが桃色に燃えている、そんな白い花を見たことがあった。

 脈々と冷たい水を吸い上げ、養分を集めて、存分に光と闇の加護を受けた蕾だけがこうして咲くのだ。手の届かない、高い高いところで。

―チャールズ…

 花の声を聞いた。
 
 自分は茎であり、蔓であり、刺であり―花を濡らす風であった。


U.

「おはよう、グレイ」
「おはよう。ああ、いいワインがあったから、ついつい飲みすぎちゃったよ」

 バッキンガム宮殿は溢れる花と緑に囲まれた白い建物なのであるが、白は白でもケーキのようではなく、素朴でもなく、歴史を記す書物のような、それでいてどんな色にも染まらない不思議な荘厳さを持った白なのであり、二人はまさにバッキンガムの白の象徴と言えた。

 多色装飾の中を颯爽と歩くグレイは、美しいとはいえ、どこから見ても青年だった。柔らかな乳房を男性用コルセットで締め上げ、黒いシャツとチョッキをぴんと着こなしている。ゆったりと折り返した襟から細い首が覗いていたが、胸に飾ったジュビリーのカメオと剣の威厳は線の細さを補った。その上たてがみのような睫毛の奥から鋭い眼光で睨まれては、誰もグレイを<伯爵家の当主>だと思わないわけにはいかなかった。

「午前中はヒマだからさ、公文書送達箱を一通り見たら、フェンシングの稽古でもしようよ」
「ああ」

 チャールズ・グレイは並ぶ者のない貴公子だと思われていた―秘密を知っている一部の者以外には。

 フィップスはグレイの美しさを崇拝していた。が、同じ女王の秘書武官兼執事とはいえ、グレイは女王の信の厚い名家の出であり、剣の腕も頭脳の切れも驚異と称賛の対象なのであって、俗なものの入る余地はなかった。諦めが先だったかどうかは別として、とにかくその日まで、グレイとフィップスは同僚であり、友人であり、しかし歴然とした身分の違いがあって、お互いに節度を持って接していたのである。





(…ああ、いたいた)

 中庭に面した広い回廊で、何人かが練習用の剣を交えている。暇つぶしといった感じで、ジョンも顔見知りの議員達が彼らを眺め何か囁きあっている。静かに会釈をしてその中に加わると、グレイの突きが決まった。白いユニフォームが光を反射し、勝利の女神の裳裾が翻ったかのように見えた。

「お見事」
「…急用?」

 汗を拭いながら、フィップスとグレイは手招きをするジョンに近付いた。ジョンは手を後ろに回して歩き出した。

「さっき、陸軍大臣のハーティントン卿を迎えに行ってきた」
「首相も?」
「一緒にいたが、まだ帰京していない…陛下がハーティントン卿にお会いになっているので、午後の予定がずれ込むと思う。内容次第では夕食前までかかるかもしれない」
「わかった」
「それから」

 ジョンは誰もいない部屋を見つけて入り、鍵を閉めた。そして、グレイのユニフォームの背中をつまんだ。

「胸、目立ってるぞ」

 フィップスははっと二人から目線を逸らし、背中を向けた。

「え?ちゃんとコルセットしてるのに?」
「飾りの多い服ならわからんが、そんなユニフォームのときは気をつけたほうがいいんじゃないか。人前では練習しないようにするとか…フィップス、お前、相手をしていて気付かなかったのか」
「…先に着替える」

 フィップスはそれには答えず、やや声を荒げて、部屋から出て行ってしまった。

 グレイは呆気に取られて、乱暴に閉められたドアと肩を竦めるジョンを交互に見た。

「なに、あの態度?」
「さあ?とりあえず…注意するに越したことはないぞ」
「あーめんどくさいなー。お祖父様はあんなに子供がいたのに、先代はどうして…」

 そう言いかけて、今更仕方のないことだ、とグレイは頭を振った。貴族にはつきものの、当主の座をめぐる争いを避けるにはこれが一番手っ取り早かったのだ。
 その上、トーリー党を嫌っていたヴィクトリア女王は、ホィッグ党派のグレイ家から自分に仕える者が出ることを強く希望していた。首相がお気に入りのメルボン卿から取って代わられた際に、宮廷の女官もトーリー党の息のかかった婦人に代えるという要請を断固として拒否した過去がある。女王の意志は固く、グレイ家としても彼女の期待を裏切るわけにはいかなかったのである。





 ジャッグの水は二月の空気の底で冷え切っていたが、何度顔を洗っても、ジョンに言われた言葉が頭の中から消えなかった。

―気付かなかったのか?

 あまりに、見慣れすぎていた。

 それはジョンも同じはずだったが、フィップスは特に、『そんなところ』までは気にしたことがなかったのだった。

 グレイが女性だと、意識したことはほとんどない。それに正直に言えば、グレイの剣から身を守るだけで、精一杯だったのだ。
 小さな身体から梃子のように大きな破壊力を生む剣術を、グレイは心得ていた。
 強い。
 今までそれを当然のように思っていたが、実は同い年の異性に負けているのだということに、初めて気付かされた。




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