BLUE in the nest

□BLUE in the nest -38
1ページ/3ページ


「…陛下からの手紙だ」

 シエルは、セバスチャンが丸く並べて運んで来たいくつもの封筒の中からそれを見つけ出し、封蝋の紋を確かめた。

 初めの何ヶ月かは、この封蝋を見ると気分が昂揚したものだった。当主として、番犬として、つとめを果たすのだという意気込み、自分を拉致した者たちにいつまた襲われるかもしれないという緊張が、胸の中に青い渦を巻いて、それに飲み込まれそうになる―そんな、いわば感傷的な気分になることもあった。だが今は些か冷静に、その封蝋を眺めることができる。
 不安も、あった。自分を黒ミサの贄にした連中は、恐らく少年少女にしか興味がない。自分が成長してしまえば、多分、興味をなくすだろうし、新たな贄を求めて国外に出た可能性さえあるのだ。

「用件次第では、イレブンジーズをタウンハウスでおいれすることになるかもしれませんね」
「ああ…」

 ペーパーナイフは黒みがかった机の上で朝の日差しを受け、白く光っていた。シエルは小さな手でそれを掴むと、封を開け、目を走らせた。眼前で巻き起こった青い渦が、光の中で霧散してゆくのを感じた。

「セバスチャン」
「はい」
「人込みのロンドンには、行かなくて済みそうだ」
「さようでございますか」
「…もっと、田舎に行くことになった」

 シエルはため息を吐いて、シルバーの盆の上に手紙を広げ、立ち上がった。セバスチャンはそこに書かれた女王の命―光の中で躍動する黒い筆跡―を見た。

‘ドーセットのブランドフォードにて、毎年現れる首のない執事が私を悩ませています’





 18世紀中頃に建てられたブランドフォードのイーストベリー邸は、後にテンプル伯爵という人物のものになったが、伯爵自身は余りこの屋敷に興味を持たなかった。彼は多くない財産の管理全てをドゲットという執事に任せていた。ドゲットは不誠実な執事だった。伯爵の物に手をつけ、仕える者を迫害し、最後には処罰を恐れてこのブランドフォードの屋敷でピストル自殺を遂げた。

 それ以来毎年決まった日になると、首のないドゲットの霊が、首のない馬をつけた馬車を走らせ現れるのだという。霊は屋敷に入り、ピストルの音が鳴り響き、またもとの静寂が戻る―一年後の、同じ日の夜まで。

「幽霊退治なんて、僕の仕事ではないと思うがな…英国全土に一体どれだけ幽霊譚があることか」

 馬車に揺られながら、シエルは眠た気に目をしばたたかせた。

「良いではありませんか。こうして旅行できるのですから」
「お前は何故か、楽しそうだな」
「執事対決というのは、少々興をそそられますね」
「嗚呼、執事がマトモな奴じゃないと、後々まで家名に傷が残る…」

 そう言いながら、シエルはセバスチャンにもたれて眠ってしまった。セバスチャンは主人の帽子を取ってそっと小さな身体を膝の上に横たえ、タイを緩めてやった。

「…御意」

 シャツのボタンを一つ開けると、昨夜自分がつけた痕―珊瑚の色が、海の友だった真珠にうつり込んだような、白い肌の赤い煌めきがあらわになった。セバスチャンは満足そうに、その痕を二、三度なぞった。





「荒れ放題だな」

 夕暮れの風が吹き込む屋敷の中を、シエルはゆっくりと踏み締めるようにして歩いた。古い様式の手摺りや柱、黒ずんだ冷たい暖炉、色の褪せたタペストリー。華やかなマナーハウスも、継ぐ者がいなければがらくたの山となり、動物の鳴き声や悪霊の啜り泣きが夜会の音楽に取って代わるのである。浮かない顔のシエルに、セバスチャンは寄り添って囁いた。

「ドゲットの霊は12時にならないと現れないそうです。宿をとりましたので、しばらくそちらに」
「わかった」

 だが、馬車の中でしっかり寝てしまったため、ソファに落ち着いても一休みしようという気にはならなかった。

「退屈だな…」
「退屈しのぎに、お遊戯を…致しましょうか?」

 馬車を下りるときに締め直したリボンタイを、再び緩め、首筋に手を這わせる。

「お前は…何故そう、印を残したがる」
「貴方が、」

 シャツのボタンを全て開け、肉付きの薄い胸にそっと口付けた。

「どこかへ行ってしまいそうだからですよ」
「どこへ行く?…お前からは、絶対に逃げることが出来ないのに…?」

 セバスチャンは黙っていた。自分にも、わからないことがあるのだ。最終的な魂の行き先―悪魔に食された魂は、本当に消えてしまうのだろうか?…

「それとも、逃げてほしいのか?」
「…まさか」

 セバスチャンはシエルの唇にキスをしようとした。が、シエルはひらりと身を交わして、テーブルの向こうへと逃げた。

「僕が自分の意志で逃げたら、お前のつけた印の意味は?」
「…相変わらず、意地が悪いですね」

 セバスチャンはくるりとシエルに背中を向けた。燕尾服を脱ぎ、ソファの背にかけ、ネクタイを外し、ボタンを外し―その一連の動作はシエルにあの興奮と緊張の渦を思い起こさせた―シャツを脱いだとき、白い背中にはっきりと爪の痕があるのが見えた。

「ご自分も、こんなに…私に印を残された癖に」
「…っ」

 シエルはセバスチャンに近付くと、そっとその背中に手をあて、唇を寄せた。

「痛むか…?」
「いいえ、可愛らしい傷です」
「…わざとじゃない」
「私もですよ。貴方が私を、」

 狂わせるから。

 どこかへ行ってしまいそうだなどと、柄にもないことを思うのは。

 言葉の終わりを、耳元で聞いたように思った。身体がシーツの海に沈み、荒波に揉まれるのを意識の外で感じた。




次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ