江戸村でござる・その弐
□お江戸物語・夜桜
(Web拍手小説より)
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ギィ…ギィ…
大川に一艘の屋形船が浮かんでいる。
桜の花びらが一枚、風に乗って、開け放した障子から才蔵の杯にひらりと舞い落ちた。
「お?こりゃあ、風流な客人のお越しだぜ」
煌々とした月明かりに照らされた、岸辺の桜が今を盛りと咲き誇っていた。
「夜桜は何だか怖い…」そう呟いたのは、亭主に酌をするお艶。
「へぇ?どこが?」彼女に杯を差し出しながら、不思議そうに才蔵は尋ねた。
「綺麗すぎるんだもの…じっと見ていると魅入られて狂いそうな…桜の魔力に引きずられそう…」
寒いのか、怖いのか、ほんの僅か身を震わせて答えた。
くいっと酒を飲み干した才蔵は恋女房の肩を引き寄せる。
「あ」
「綺麗すぎて…狂いそう、か。可愛い事を」白い歯を見せて才蔵は笑った。
「そうやってお前さんは笑うけど…」すねるように、お艶はちょっと頬を膨らませた。
才蔵はその頬を指先でチョンとつつく。
「ちげぇよ。俺の方がとっくのとうに魅入られちまってるのさ。…お前にな。それこそ狂いそうなくらい惚れてんだ…今更桜の魔力なんざは効かねえよ…」
彼の胸に顔を埋めたお艶から、くぐもった声が微かに漏れる。
それを聞き取った才蔵は破顔した。
いつしか障子が閉められ、2つの影が重なり合う…
響くのは船頭が操る櫓の音だけ…
ギィ…ギィ…
花びらがヒラヒラと川面(かわも)に舞い落ちる…魅入られた2人の後を追うかのように…