江戸村でござる

□お江戸物語*才蔵とお艶I第8部
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朔也と別れ、自分の屋敷に戻った龍之進を下男の文四郎が出迎えた。
「お帰りなさいませ」

「うむ」軽く頷いた彼が、挨拶した文四郎の手元をヒョイと見ると見慣れた自分の草履を持っていた。

揃えようとしていたようだ。

「…兄上はもう戻られたのか?」

「はい。今し方。坊っちゃまよりほんの少し前に」

龍之進が外出する前の事である。兄の
新調したばかりの草履の鼻緒が、どういう加減か外れてしまい、同じ寸法の弟の物を急遽代わりに履いて出た。

兄の龍之助は今日、高輪に住む許嫁の浜路の母方の祖父母の屋敷に、彼女と一緒に結婚の挨拶に行くところで、他の履き古した草履と言う訳にはいかなかった。

許嫁を迎えに行く約束の刻限があるのでグズグズはしていられない。しかし、幸いと言おうか、龍之進の物は比較的新しく、まだ綺麗だったのである。

神田から浜路の住む駿河台に寄り、更に高輪へは結構な距離がある。遠出するには、真っさらな新品より、少し履いた物の方が足に負担がかからず歩き易い。

草履を誂えた店に一言言っておけ、と言い残し兄はそそくさと出掛け、龍之進の方は古い物(抜け出し用)を履いて出た。

「全く、鼻緒が外れるなんて縁起でもない…お2人とも無事にお戻りでホッとしました」

だが龍之進は、胸を撫で下ろすように言った文四郎を笑い飛ばした。
「バカバカしい。鼻緒が切れたの、外れたのがどうしたと言うのだ?くだらない迷信に過ぎん。お前も心配症だの。それとも何か?兄上がご挨拶に伺って不都合があったとでも?」

慌てて文四郎は首を振った。「とんでもない!先様は始終ご機嫌で浜路様の花嫁姿を早く見たいと楽しみにされているそうで…」

「ほら見ろ。何も心配する事などないのだ。で、兄上の草履は?」

龍之進の問いに、今井家出入りの下足を扱う吾妻屋が、怒りを含んだ屋敷からの使いの口上に仰天し、店主自ら持参して平身低頭で謝罪したと答えた文四郎。

全く不良品を納めるなんぞ失礼きわまる、とまだプリプリ怒っている。
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