お題・英単語

□pain-痛み-
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 珍しく定時で上がれて署を出ると、前方に見慣れた後姿を発見した。
 早足で追いかける。

「すみれさん、飯食ってかない?」
 追いついて声をかける。
 するとすみれさんは驚いたようにこちらを向いて、微笑を浮かべて言った。
「ごめんね。今日は急いでるのよ」
「そう……」
「じゃあお先に」
 すみれさんは足早に駅へと向かって行った。

 俺が声をかけるまでは、そんなに急いでいる様子もなかったのに。

 別の日、定時少し過ぎに業務を終了することが出来て帰宅準備をしていると、背中越しでもコートを掴む気配がした。

 振り向いて声をかける。

「すみれさんも今上がり?」
「あ!! 報告書書くの忘れてた!! もう、結局残業だわ」
 すみれさんは思い出したようにうんざりとした声音で言うと、手にしていたコートを再び椅子にかけ直した。

「青島くんは上がりなのね。お疲れさま」
「……うん……お疲れ……」

 俺の存在に今気が付いたというようにこちらを振り向き言って、すみれさんは椅子に座って引き出しから報告書を取り出した。

 非番も重なるということはそんなにないが、それでも重なることはある。

「すみれさん、今度の非番一緒だね」
「え?……今度の木曜日?」
「そうだよ」
 俺がそう返事すると、すみれさんは困ったような顔になった。
「……いけない……緒方くんと非番代わって貰おうと思ってたのに言うの忘れてたわ……緒方くん、今度の非番なんだけど代わってくれないかしら?」
「今度って木曜日ですよね?いいですよ」
「ホント?ありがと。助かる」
「いいですって。お安い御用です」
 すみれさんに笑顔を向けられた緒方くんは嬉しそうに顔を赤く染めた。

 そのとき、何となくだけど違和感を感じた。

 もしかして、俺のことを避けているのだろうか?俺と話すことを、接することを避けているのだろうか?
 そう思えた。

 それからもすれ違いが何度かあった。何度か、というレベルではないかも知れない。

 こちらが声をかけたときも、何かしら用事がある、という様子を見せる。
 そうされるとこちらもそれ以上何も言えない。
 だから最近ではあまり会話という会話を交わしていない。

 あのときからじゃないだろうか。
 休憩室で俺と恋人が危ういという話をしたときからだ。

 すみれさんに彼氏を作らないのかということを聞いたとき。

『この傷を見せてもいいって人と出会わない限り、ないわね』

 そう言って寂しそうに笑った彼女。

 その様子が何だか痛々しくて、胸が潰れそうな思いだった。
 だけど、胸の痛みはそれだけではなかった。

 本当の自分の思いがどこにあるのか、それを思い知らされたからだ。

 いつか、すみれさんがその傷を晒すことが出来る男に出会うかも知れないと思ったとき、どうしようもない胸の痛みに苛まれた。

 恋人との関係よりもそのことに胸を痛めている自分がいることに多少の驚きもあったが、それは認めてはいけないと胸の奥にしまい込んでいた自分の本当の気持ちであると再認識させられた。

 恋人のことは好きだ。しかし、それを愛と呼べるのか、自分でもわからない。
 愛せると思った。だけど、いつだって自分の心のどこかのすみれさんがいた。

 恋人に会っているときも、こんなとき、すみれさんならこうするだろうなとか、食事をしていても、すみれさんなら本当に美味しそうに食べるだろうな、とか。

 つい比べてしまうのだ。

 彼女はすみれさんと正反対で、髪の毛も栗色で、小食だ。
 もっと食べなよ、と言うと、ダイエット中だからと言ってあまり手を付けない。
 黒髪で小さな身体で男を投げ飛ばし、食べることが大好きなすみれさんとは違う。

 だからつい、すみれさんとは違うな、などと思ってしまう。

 そんな自分の気持ちを恋人は見透かしていたのかも知れない。
 
 『あなたが本当に私のことが好きなのかわからない』

 その言葉がそれを物語った。
 態度に出しているつもりはなかった。だけど彼女はちゃんとわかっていたのだ。
 俺が自分を誰かと比べてしまっていることを彼女は気が付いている。
 
 今まですみれさんと二人で食事をすることも、それこそ二人っきりになることもしばしばあったことだ。
 それに同僚としてであるが、同じ時間を多く共有してきた。
 だから恋人のことよりもすみれさんのことの方がよく知っている。
 それこそいいところも悪いところも、全てでは無いにしろ、自分ではわかっているつもりだ。

 それに背中越しに彼女の存在を感じるだけで落ち着く。
 いないと何だか不安で、この間までそこに彼女がいなかったときのことを思い出してしまう。
 
 被弾して入院していた彼女の席は空席で、彼女がそこにいないことに不安を感じた。
 生きているとわかっていても、時折あのときのことが夢に見るほど恐怖心を抱いていて。
 
 背中越しにいるだけで安心できた。あのときはここにいてくれるだけでいいと思っていた。
 もう彼女は大丈夫だと。ここにいるのだと、そう思うだけでよかったのに。

 今はすぐそこにいるのに遠く感じる。
 彼女がいなかったあのときよりも遠くに感じる。
 
 だから少しでも話す機会が欲しいと思っている。
 今まで通り。背中越しで。ごく自然に。
 

 あの日、彼女を抱き締めた。
 
 被弾して、血を流す彼女の身体を抱き締めた。

 こんなに近くに感じるのに、状況は最悪で。
 ただひたすら、彼女の身体から流れる血を止めようと必死だった。

 だけど傷付いているにも関わらず事件解決を望む彼女に報いようと、犯人確保の為に走り回った。

 無事に犯人を確保でき、彼女の命も助かった。

 あのとき彼女の存在がとても大きく感じたのに、変化を怖がった自分はこの胸に燻る気持ちを伝えることのないまま、ただ彼女の傍にいることを願った。

 そして合コンで出会った子と流されるまま付き合うことになった。

 すみれさんが傍にいることを願いながら、俺は他の子と付き合ったのだ。

 自分でも卑怯だと思う。
 変化を恐れ、ただずっと一緒にいたいと願い、だけど男の性には逆らえない。

 恋人がいながらもすみれさんにも傍にいて欲しいなんて卑怯なことを考えた。

 しかし俺は今すみれさんに避けられている。こんな卑怯な自分を、すみれさんもわかっているのではないかと思ったりもした。
 
 隣にいることが出来るだけで満足だったのに、今はそれすらも許されない。

 彼女はそれを望んでなどいない。自分が傍にいない方がいいと思っている。

 もし、すみれさんの隣で笑う俺以外の男がいるのなら。
 今はもう甘んじて受け入れるしかないのか。
 それが彼女の幸せならば、自分はそれを受け入れなければならない。
 どれほど胸が痛もうと、彼女が笑ってくれるのならば。
 それが同僚という殻を破ろうとしなかった自分への報いならば。

 だけど『守る』と言って『守れなかった』自分だけど、せめて彼女を守る存在が出来るそのときまでは守らせて欲しい。

 そのときが来るまで隣にいることだけは許して欲しい。


 ねえ、すみれさん。

 ただの同僚でいいから、傍にいてよ。

 こんな俺だけど、拒絶しないでよ。


 潰れそうなこの胸の痛みは、いつか彼女に届くだろうか―。


 end

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