お題・英単語

□touch-触れる-
1ページ/1ページ


 ふと隣を見る。

 彼女の黒髪が風になびいて日の光にキラキラと光っていた。

「すみれさん、髪伸びたね」
「うん。切ろうかなって思ってんだけど、ここまで伸ばしたら切るのが勿体無くって」
 彼女は自分の髪を一房掴んで言った。

「だよね。すみれさん、髪キレイだもんね」
「ありがと。でも髪だけ?」
 上目遣いでこちらを見る。その仕草に心臓が跳ねる。

「どこもかしこも全部ステキですよ?」
「……なんか白々しい」
 眉根を寄せてそう言われた。やっぱり白々しかったか。

「自分でふっといてそれを言う?」
 苦笑してそう言うと、彼女はいつもの口癖を口にする。
「こりゃ失敬」

 フフッと笑う彼女の横顔。本当に綺麗だと思う。
 冗談めかして言うことは出来る。だけど本気の言葉は言えそうにない。
 
 本当は彼女の白い肌も、その黒く豊かな髪も。その芯の通った性格も。
 そして傷付いた腕も、その左肩も。
 
 どこもかしこも彼女は綺麗だと思う。

 彼女のどこをとっても綺麗で。

 ふと、触れてみたいと思った。その豊かで綺麗な黒髪に。

 どんなに滑らかで、どんなに柔らかなのだろう。
 
 だけど、彼女にとって自分はそれに触れることを許されている存在ではなくて。
 そんな自分たちの関係が時々もどかしくて。

 かつて彼女の髪に触れることが許されたであろう見たこともない男に、ほんの少し嫉妬めいた感情を抱いたこともあって。

 そんな自分のことを小さい男だな、と自己嫌悪に陥りそうになったこともあって。

 それ以上にこの関係を打破出来ずにいる自分を情けなく思うこともあって。

 だけどこの微妙な距離感が居心地がいいと思うこともあるから、そりゃ何も進むわけがないとも思う。

「ねえ青島くん」
 彼女がこちらを見上げてニッコリと笑う。

「なに?」
「お腹減らない?」
「……また?」
「いつもお腹を減らしてるみたいな言い方しないでよ」
 頬を膨らませて眉根を寄せる仕草は年齢を全く感じさせない。

「こりゃ失敬。てか減ってるじゃないの」
「たまによ」
「その都度俺にたかるじゃない」
「たかるって失礼ね?奢ってって言ってるだけじゃない」
「それがたかってるって言うんだよ」
 自分がそう言うと、彼女はそっぽを向いて言った。
「じゃあいいわよ。他の人誘うもん」
「誰も行かないなんて言ってないでしょ?」

 今、彼女の隣にいることを許されているのなら、この位置を自ら他の誰かに譲るなんてことはしたくない。
 
 不機嫌に先を歩く彼女を追いかける。

 少し手を伸ばせば届く、揺れる彼女の黒髪。
 衝動的に手を伸ばしそうになったが、思い止まった。

 まだこの黒髪に触れることは許されていない。そんな立場に自分はいない。

 空をつかんだけのこの手を何事も無かったようにコートのポケットに突っ込んだ。


「待ってよすみれさん」
「待たない」
「そんなこと言わないでよ」

 彼女の隣に追いつき、並んで歩く。

 今は隣にいるだけでもいい。

 彼女が傍にいるのなら。
 
 それだけで何だか満たされた気がした。


 end

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ