鱗詞

□鱗の話
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革靴を履いた蛙の話し

 靴を磨くのが好きだ。靴はその人の人生に似ている。擦り減らした踵とくたびれた革に年月を見る。この仕事は私にとって天職だと思っている。私は靴を磨く事でその人の人生を見る。
 しかし今日は客が来ない。この頃はいつもそうだ。軽く欠伸をして、今日の晩御飯は諦めようと首を降り、道具を片付けてしまおうと私は重い腰を上げた。
 そんな時である、頭上に陰が落ちて、私は安堵して顔を上げた。客かと思ったのだ。するとそこに居たのは革靴を履いた蛙であった。なんとまあ、私は息を飲んだが蛙は一向に私の事等気にする様子も無く、当然の様にその革靴を履いた後ろ足を台の上に堂々と載せた。勿論私は一瞬怯んだが、余りにも蛙が堂々としているので、仕方なくその革靴を磨く事にした。
 ほう、ほんの少し息を飲んだ。思いの外蛙の靴が上等だったからだ。本物だな、これは。ここの所安い人工の合成革が多かったので、久々の本物の感触に少しうっとりとなる。
 黒い牛革の汚れを丁寧に拭き取る。拭く内に嗚呼牛の革を蛙が履いて居るのかと思い少し気分が悪くなった。
 見れば蛙はこの上無く堂々としている。こんなに堂々とした蛙は初めてである。すると蛙のギョロとした目と合ってしまったので、私は慌てて靴に集中する。
 嗚呼。革の手触り。
 少し眩暈を覚えて、いけないと自分を叱咤する。
 蛙は未だ堂々としている。
 あのう、声を掛けてみる。すると蛙のギョロとした目がこちらを向く。ずいぶんいい靴ですね。控え目に褒めると蛙は嬉しそうに目を細めた。そうなんです、凄く気に入って居るのです。蛙は低い様な高い様な皺がれた声で言った。今日はこれからお帰りですか。いいやこれからまた会社に戻りますよ、まだやり残した仕事が有るのでね。ほう、お仕事は何を?金融関係ですがね、最近は何処も不景気で。
 大変ですねと返事をしながら、一体自分は誰と会話をしているのかサッパリ分からなくなって来る。蛙の皺がれた声で耳骨が振るえて、耳の中から蛙の声で一杯になる。
 革の感触と靴墨の匂いと蛙の声で一杯になる。

 蛙は未だ堂々としている。
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