鱗詞

□鱗の話
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トンボ玉

 とても綺麗な虹の根元に
あかいトンボ玉を埋めた、夢のようにあかいトンボ玉。

 眠る前に、窓ガラスに息を三回吹き付け、小指で透明な愛を描く。ミントの様な夜だ。描きながら息を吸う。あかが私の頭を支配する。それは愛の色をしている。透明な愛の色。
 いい夢を見るのに少しコツがいるように、眠る前の時間を楽しむのにもコツがいる。力をきちんと抜いて(でも抜き過ぎてはいけない)、空気をよく澄ませる(でも澄ませ過ぎてはいけない)。そして全身の疲れに思いを馳せる。私の場合は特に背中だ、肩胛骨の辺りにぞろりととぐろを巻いた一日の疲れ。
 眠る前の時間は幸福に満ちている。死ぬまでに何回、私はこの幸福な時間に身を委ねることができるのだろう。そんな小さな疑問さえ、ミントの様な夜に溶けていってしまう。なんて透明な空気。なんて幸福な。


 虹の根本に出かけて行ったら、トンボ玉を埋めた場所から小さな芽が出ていた。ほんのりとしたみどり色をしている。湿った匂いとそっくりだ。
 トンボ玉がどうなったのか確かめたくて、その小さな芽を掘り返してしまいそうになる。
 はやる気持ちをぐっとこらえて一週間程待てば、芽は成長して膝程の高さにまでなった。更にこらえてもう二週間程待つと、成長した芽は花を咲かせた。薄い色であまり美しくもなかったが、花弁を散らせる様子は美しかった。花弁は、一枚、二枚、三枚と落ちた。さらさらの粉雪をそっと舐めるのに似ていた。そうして私はじっとしていた。虹の根本にうずくまってじっとしていた。


 目を覚ましたことに、私はなかなか気付かない。一生懸命気付かない振りをするからだ。うまく行かないことも多いが、大概やり過ごせる。目を覚ました瞬間をやり過ごせば、後は覚めていたことにすればいいのだ。そうして一日の始まりを一生懸命受け入れる。これは大概うまく行かないが。
 友人によれば、朝を肯定的に受けとめようとしないのは私の悪い癖だそうだ。一日の終わりにばかり確執するのって、どうかと思う。締めくくりに必ず彼女はそう言う。本音を言えば、そんな言い分知ったことか、というところか。
 とにかく私は、目覚めを受け入れるのに時間が必要だし、眠りに着くのにもたっぷり時間をかけたい、それだけのことなのだ。
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