たまゆら

□この場所から始めよう
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「…なるほどう、成歩堂…」

近くで誰かが僕を呼ぶ声がする。
それは耳の中に飛び込んできて、まだ眠りの海に浸りたい僕の意識を無理やりに浮上させた。

うるさい。
ほおっておいてくれ。

無意識にそう思い口に出したつもりだったけど、実際はほとんど音にはならなかった。

「成歩堂、おい、成歩堂ってば…!」

伝わらなかった抗議に意味はなく、呼びかける相手はますます声を大きくする。
それでもはっきり覚醒するのが嫌で無視を決め込もうとしたら、今度は遠慮なしに肩を揺さぶられた。
流石にぐらぐらと身体全体を揺すられては、おちおち寝ていられない。

なんだよ、と少しばかり苛立ちを含んで目を開ければ、幼馴染の顔がアップで映し出された。

「お、起きたか!」
「矢張…? なんで…」
「寝ぼけてるのか、成歩堂。なあ、大丈夫か」
「…?」

何故僕は心配そうな顔で、矢張に起こされているんだろう?

状況が把握できなくて、僕はとりあえず身体を起こそうと腕をついた。
途端、首回りや腰がバキバキと鳴る。
起きたばかりだというのに、まるでものすごい重労働でもした後のように身体が固く、痛かった。
そのことも腑に落ちず、まだ霞みがかる視界をはっきりさせようと頭を振って、僕は自分がどこにいるのか漸く理解する。

僕が横たわっていたのは、事務所の応接室の床だった。
そこに上着を脱いだだけの普段着で、僕は寝ていたようだ。
こんな硬い所で寝ていたら、それは身体も痛むだろう。
ひどい肩こりや腰痛がいっぺんにきた状態の身体に、無意識に顔を歪めていると、矢張が再度心配そうに声を掛ける。

「おい、お前どっか悪いのか? こんなとこで寝てて…、倒れてたワケじゃねえよな? 朝目が覚めてからお前を見つけてびっくりしたぜ…」
「矢張は…、なんでここに…」
「おいおい、まだ寝ぼけてるのか? 昨日はお前の誕生パーティで、オレ泊めてもらったんじゃねぇか」

誕生パーティ。

そのキーワードは僕のもやもやとした記憶を一気に覚醒させた。

そうだ、僕は昨晩…!!

思い出すと居ても立ってもいられず、僕は飛び上がるように身体を起こした。
何かに突き動かされるようにガバリと立ち上がる僕を見て、矢張が目を白黒させる。

「成歩堂?」
「矢張、お前ひとりか!?」
「え、あ、ああ。ここにはお前とオレしかいねぇけど?」
「……」

ぐるぐると首を回しながら真宵ちゃん――いや、千尋さんの姿を探す。
けれど矢張の言ったとおり、事務所内には僕たち以外に誰もいなかった。
もしかして矢張の見落としかと思い、給湯室や所長室も見たけれどやはり他の人間は見当たらなかった。

事務所は昨日となんら変わった様子がなかった。
パーティの名残の装飾も、片付け途中の食器類も、僕が記憶しているままだ。
一瞬、昨晩千尋さんに告げられたことが夢だったのかと思いさえした。

けれど僕の態度に疑問符を飛ばしている矢張から、上着床に落ちてたぜ、とジャケットを渡されて――やはりあれは本当に起こったことだったと衝撃を受けた。
恐る恐る手を伸ばした濃紺の上着のポケットからは、昨晩御剣からもらった指輪が出てきたからだ。

“私の気持ちだ…。君に受け取ってもらいたい”
“そのリング、君の好きにしてくれ”

御剣の苦しげな、熱の入った視線。
そして。

“今日からあと1ヵ月後に……”

青ざめた千尋さんの表情。
震えるのを押し殺すかのように告げられたあの言葉。

指輪の輝きが、僕の記憶を刺激して、次々と映像を浮かび上がらせる。

「……」
「おぉい、成歩堂? ほんっと、どうしたんだよ。床で寝てるかと思えば、起きてもぼーっとしてさぁ」
「……」
「成歩堂、なぁってば」

指輪を片手に固まる僕に、矢張がどうしたのかと困ったように呻く。
けれど、僕は昨日のことが夢でないことに――、受け入れ難い現実を認識するのに精一杯で、矢張に愛想よく返事は到底できない。
そうして次々と記憶を辿った後あることを思い出し、僕はようやく矢張へと視線を向けた。

「矢張!」
「おお? なんだ突然」
「これ、この指輪! はめてみて!」
「はぁ?」

目の前にリングを突き出され、矢張は面喰って口を開けた。
矢張からすれば僕の態度は不審以外の何ものでもないだろうけれど、切羽詰まっていた僕はそんなことに構ってはいられない。
ともかくリングを指にはめろと一点張りで、気味悪がる矢張の手に無理やりそれを押し付ける。

「…まぁ、変な意味がないんなら指輪するくらい、いいけどよ…」

ぶつぶつ言いながらも、シンプルなプラチナを指に通す。
僕は固唾を飲んで、その光景を見守った。

「…で? これでいいわけ?」

矢張は指輪をはめた右手を、ぷらぷらとかざす様に振った。
指輪は光灯の光を受けて反射するだけで、特に変わったところは見られない。
矢張が外していいか?と訊ねるのを、もうしばらく、と押しとどめてみたけれど…、やっぱり何も変化は起こらなかった。

そのことに、僕は盛大に溜息を吐いた。

「だから、一体なんなんだよぉ。この指輪がどうかしたのか?」
「…いや、別に…」
「別にって顔じゃないだろ? 何かあったのか?」
「……」
「またダンマリかよ。お前、ホント変だぞ。どうしちゃったんだよ?」

矢張がとうとうキレて、説明しろと喚くけれど。
その説明するのに適切な言葉も態度も分からない僕には、それは無理な相談だった。

だって僕自身が、本当はよく分かっていない――飲み込めていない事態なのだから。

ぎゃんぎゃん叫ぶ矢張に、悪かったよとただ謝るくらいしか、僕にできることはなかった。
バイトが始まる時間だからと、ようやく矢張が引き下がって事務所を後にした時には、僕は昨晩から続く混乱と疲労にどっと肩を落とした。
一人になり、物音が立たない事務所で頭を抱える。
朝の光が差し込む室内に、何故かとてつもなく暗くよどんだ空気を感じて仕方がない。

“今日からあと1ヵ月後に……”

昨日、千尋さんから告げられた言葉が、延々と同じフレーズを繰り返し回る。
僕は背筋から這い上がる寒気に身震いした。

もうすぐ、僕は死ぬ……?
訳が分からない。

どうして僕が?
どんな理由で?
何故、千尋さんはそんなことを?
僕をからかってるんじゃないのか?

ああ、でも千尋さんがそんな性質の悪い嘘をつくことなんてあるか?

僕の中で信じたくない気持ちと、千尋さんの言うことをそのまま受け入れそうな気持ちとがぶつかる。

一体、何が起こっているのか。
どうしてこんなことになっているのか。

苛立ちと焦りと、そして不安と…。
色んな負の感情が僕のなかでひしめき合い、一人ごちゃごちゃと考えているうちに突然叫びだしたい衝動に駆られる。
それを、なんとか押さえつけてはソファーに八つ当たりするくらいに留めて、再度頭を抱え込んで唸った。

どのくらい、そんな不毛な時間を過ごしたのか。
矢張に起こされた時間が早かったのもあり、まだ誰も来ない事務所で僕はぐるぐると同じことを繰り返す。

…それくらい、今の僕は取り乱していた。
でもただこうしていても、何の打開策も見出せないのも分かっていて。

落ち着け、冷静になれ。

僕は気ばかり急いてしまうのをなんとか堪えようと、何度もそう念じた。
そうして深呼吸を繰り返し、繰り返し。
閉じていた目をゆっくり開けて、僕はソファーに身を鎮めながら、まずは昨晩のことをきちんと理解しようと必死に記憶を辿る。
千尋さんが立っていた入口付近に目をやりながら、あの衝撃的な告白の後を、事細かく思い出した。
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