わたしの創作牧場

□春の眠り
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 最初にその姿を垣間見たのは、やはりこのように桜が咲き誇る時期であった。御簾のわずかな隙間から垣間見えたあの人は、まるで桜の精のように美しい女性であった。白い肌に映える桜色の頬。長く美しい黒髪。その美しさはすぐに私の心を捕えて離さなかった。毎夜のようにあの人を思い、眠れぬ日々が続いた。
そして私のたった一度の願いが叶ったのも、満開の桜の咲く夜であった。その肌はまるで幻のようで、触れると消えてしまいそうであった。しかし今でもあの人の肌のぬくもりが私の掌には残っている。
あの人はまるで掴もうとする私の手をすり抜けていく、掴むことのできない桜の花びらのようであった。
そんな幻のような一夜であったが、その後は会うことさえ叶わなかった。それでも会いたくて、あの人のもとへ足を運び続けた。
そのような日々が長く続く中、私はあの人への思いが叶わず、また誰にも相談できぬ苦しさから逃れたくて、すべてを捨てる覚悟で旅に出た。
諸国を巡る私は、俗世間との関わりを無くしたかった。出来るだけ都のこと、特にあの人のことは耳にしたくなかった。しかしどこにいても、わずかとは言え私の耳に入ってくる。それが苦しくて仕方がなかった。
それから間もなく、あの人が亡くなったという噂を耳にした時は、私の中でわずかに咲き続けていた桜が散ってしまったようであった。その後の私は苦しさも悲しさも感じず、ただただ歩き続け、気がつくとこの桜の前に、立っていた。
突然、私の頬を伝うものがあった。それはだんだん激しくなり、私はいつしか木にしがみつく様にして泣いていた。
それからもう何年もの間、この桜に支えられてきた。なぜこの桜なのかはわからない。けれどもこの桜はあの人を思い出させてくれる。だから私は年老いてもなお、ここに足を運んでしまうのだろう。
あの人だけではない。この長い年月の間に大勢の人が死んでいった。私も間もなく死んでいくだろう。彼らの死は満足のいくものであったのだろうか? それはわからないが、私はこの桜の下で眠りたい……。

願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

西行法師。俗名佐藤義清。平安時代末期、北面の武士として活躍した彼の突然の出家の謎は、未だにわかっていない。
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