第漆神饌所
□5月22日/乱ギン
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どこか落ち着いた店で涼を取りがてら冷酒でも、と乱菊を誘いに来たギンは、部屋の真ん中で座禅を組んでいる姿を見付けて立ち尽くす。
「えーっと…あの、お譲さん?何してはんのですか?」
おそるおそる沈黙する背中に声をかけた。口調が可笑しいくらい丁寧になってしまう。だが、乱菊は笑うどころか振り向きもしない。
「ら、乱菊?」
人一人分の距離を保って乱菊の正面に回り込み、ギンは確実に退路を確保できる場所で膝を折った。顔を覗き込む。眉間に皺は刻まれていない。唇は…一文字に結ばれてはいる。が、不機嫌そうな雰囲気を醸し出している訳ではない。今の乱菊を表すなら、無表情の一言に尽きる。
「どないしたん?変なもんでも拾い食いしたとか、魚取ろう思て深みに嵌った、とか…」
他には実に手が届かずに木から滑り落ちたとか、他所の畑に忍び込んだのがバレて追い掛けられたとか、とにかくギンが思い当たるのは幼い頃の失敗談ばかりだったが、乱菊は全くの無反応。
しばらく腕組みして考え込んでいたギンは手を打った。
「あっ、分かった!蜂に追っ掛けられて、肥溜め落ちたんやな!」
「いつの話よ!?」
正面から張り手が飛んできた。乱菊の攻撃を難なく避けてから、ギンは首を傾げる。ハチミツを舐めたくて巣を落として蜜蜂の逆鱗を買い、追い掛けられて肥溜めに落ちたのでなければ何だというのだろう。
「どんなドジっ子よ!?それに、今ならハチミツ欲しけりゃ買ってるってば!」
「あ、覚えとった?」
肩を竦めてくすくす笑う男を、乱菊は精一杯の虚勢を張って睨みつけた。肥溜めの上空には旋回する蜂の群れ。慌てて助けに来てくれたギンは、蜂を追い払ってから躊躇わずに乱菊へ手を伸ばした。だが、臭うし滑る。乱菊を支えきれなくなったギンは、仲良く一緒に肥溜めに落ちたのだ。
飢えと孤独を除けば、最悪に分類される思い出である。
「まったく…。せっかく瞑想して明鏡止水の心境に辿り着く五歩手前だったのに…」
「五歩て微妙な…。ほんでも、また何で瞑想?」
乱菊は押し黙った。ギンの部屋に押し掛けて襲う手順を考えていたら妄想が止まらなくなった、とは言えない。
「ギ、ギンは?なんの用で来たの?」
狼狽えて切り返す乱菊を一瞥したギンは、じりじり扉まで下がった。退路を確保すると、ギンは腰に手を当てて溜め息を吐いた。
「そないな不埒な子ぉに育てた覚えはありません。悲しいわぁ、ほんまに」
えらそうに父親面するな、と乱菊が立ち上がった時には、ギンの姿はどこにもなかった。まんまと逃げられたのだ。
「だから瞑想してたのに…。台無しにしてくれたのは誰だと思ってんのよ、ホント…」
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