念此茶屋


□二つ色霖雨譚
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 * * *


 叩きつけるような降りではないが、しとしとと小雨が降り続け、湿気が満ち充ちている為に、窓は開けられないだけで何時もと何も変わらない平和な週末の初日、土曜の朝の1201号室。


「飽きもせんと…」

「うん、梅雨入りしちゃったからねぇ…『梅雨前線は本州の南海上に停滞し南下する気配はありません』だって。こんな風になかなか止まずにさめざめと降り続ける雨を『霖雨』っていうんだよ…日本語って本当に風流で綺麗だよね…」


 昨夜のシーツ等の大きな洗濯物も詰めて、窓際まで山盛り押し込んだ洗濯カゴを持ってきて、雨よりも止めどなく溜め息を吐きまくるギンの背中に、イヅルは新聞越しに生返事を返した。

「せやけど洗濯物は待ってくれんし、風呂場もカビ大繁盛で生えとるし、野菜は高なるし、弁当傷みやすくなるし…あ、ご飯の下のお酢、切らしとったんやったわ…」

「すっかり主婦だねぇ」

「雨ン中で呆けとった方がえェ客に拾われる確率高かった頃は、雨も嫌いやなかったんやけど、…って今は客や無うてカビの話やんか…あ、お酢」

 久し振りの週末、五日ぶりとあって昨夜はずいぶんと乱れ、可愛い啼き声を上げていた同じ口から愚痴吐きまくりのギンを見ても、「あぁ、今日も八割増で可愛くズレてるなぁ」と、無関係な感想を抱いていたイヅルの目の前に、いつの間にか腰に両手を当てた、所謂仁王立ちのギンがいた。先ほどより一つ増えた洗濯物のカゴを足元に並べて置き、両手にそれぞれ何かを持っている。

「これ、混ぜて、練っといて貰えません?」

 新聞を折り畳んでから良く見てみると、重曹の箱と酸素系の洗剤容器、少し凹んだ鍋とヘラだった。正直なところ、イヅルには昼食の下拵えではないだろうというぐらいしか分からない。

「……掃除?」

 足元のカゴを持ち、振り返りながらにっこりと笑ったギンはヒマそうやから、今日は洗面所と風呂場のカビ取り、手伝うてもらえます?」と言う。依頼口調だが、どうやら決定事項らしい。同じ『お願い』ならお強請りがいい、等と考える隙を与えない笑顔だ。今さら反対する理由もなければ、特に持ち帰った仕事がある訳でもない。休日だが、昼間に手を出すのは控えたいし、何より朝からでは幾らなんでも不味いだろう、こんなに可愛いのに勿体ないな…と、手持ちぶさたで新聞に逃避しつつギンを眺めていただけなので、イヅルに異存はないが、取り敢えず浮かんだ疑問は尋いてみる。

「それの乾燥が終わって君が帰ってくるまで、ずっとこれを練り合わせてればいいの?」

 どうやらまとめ洗いした洗濯物は、隣のビル一階にあるコインランドリーへ持って行くつもりらしい。カゴの上からビニールを被せている。

「混ぜ終わったら、風呂場や洗面所の、カビ生えとるトコに塗ったくっといて貰えません?あ、コレ、配合割合です、換気扇回して下さいね?乾燥から帰ってきたら、まだ塗れてへんトコとか、見落としないか、ボクも一緒に確認しますよって」と、混ぜる割合をメモした紙をテーブルに置いた。老母の字だ。また『主婦の知恵』を授けて貰ったのだろう。仲の良い母娘のように連絡を取っているのも知っているし、ギンも隠さない。それが老父でも父娘なのだから、責めるつもりは毛頭ないのだが。


 朝から食事の準備と片付けは勿論、洗濯、掃除、と忙しく働いていて、隣のビルとはいえ今から雨の中、洗濯物の乾燥に行き、それが済み次第、イヅルに任せた風呂場のカビ取りの手伝いに取り掛かるという。対照的にイヅルは、休んでいてくれと、半ばギンに脅され、ヤサグレ寛ぎモードに突入していた。週末に疲れを取らなければならないのはギンも同じはずなのに、イヅルだけ癒され、休めと言われてはヤサグレるしかない。パジャマのままで、コーヒー片手に新聞を読んでいたのだが、ようやく『一緒に』何かを出来るとあって、俄然張り切り出した。

「じゃ、とにかく着替えてくるね」

 鬱陶しい梅雨でも、たとえそれがカビ取りという地味な作業であっても、一緒に出来る『何か』があれば構わない。雨の中、付き合っていた女性に呼び出された時は、何かと理由をつけて断っていた数年前が懐かしい。小さなことにも、ずいぶん大きな幸せを感じられるようになったな…と、たかが三、四ヶ月の暮らしの中で、ギンに出逢う前の自分が遥か遠くになった不思議が嬉しかった。


 * * *


「休日に腕捲り、足捲りで掃除なんかした覚えないんだけどなぁ…」

 口を突いて出る愚痴と裏腹に、鼻からは自然にハミングが流れる。

 毎日入浴している時には湯気のせいで気付かないカビを見付けては、「天誅!」と掛け声をかけながら、ペーストを塗るというより投げていく。きちんとヒットしなければ、「抵抗するか、この逆賊めが!覚悟せよッ!」とベタベタ厚塗りする。段々楽しくなってきた。昔付き合った女の子や、会社の知り合いが見たら、きっと驚く姿だろうと自覚はしている。ギンから何かが感染している自覚は、十二分にある。『何事にも楽しみを見付ける』方が捗る。仕事ではなく、この家の中でしか適用していないが、別に構わない。




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