念此茶屋


□二つ色芙蓉譚
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 * * *


 玄関先の廊下で、廊下の壁に背を預けて凭れ、反対側に足を上げ、思い切り爪先に両腕を伸ばす。

「若い分、君の方が身体は柔らかいのは知ってるけど…思ったより鈍ってたみたいだなぁ」

「それ、お爺ちゃんが良ぅやっとったストレッチやから効果あるはずやよ?吉良サンも頑張ってェな?」

「うん…あ…たたた」

 梅雨明けのニュースと共に訪れた暑さにうんざり気味の、休日昼間の1201号室、廊下にて。ダイニングのドアを開け、クーラーを垂れ流しにしながら、イヅルはギンに教えられたストレッチ運動を、ギンはイヅルの通勤用革靴を出してきて手入れをしていた。


「吉良サンは通勤の往復で歩く以外、ほとんどデスクワークなんやから、ホンマは前屈や無うて、反らす方の逆ストレッチも効果あるんやけど、…って!いきなりやらはったら…ッ!」

「痛ッ!いだいッ!背中つったーッ!」

「あァっ!もう!!ヒトのハナシは最後まで…」


 ガチャ…チャリチャリ…


「あ、おバカ後輩が今世紀最大のバカやってら」

 今時流行らない悪趣味な柄の黒のTシャツに、アクセサリージャラジャラな、やはり黒い皮のパンツ、年期の入った皮ブーツ姿のヤンキーが、インターホンも鳴らさずに侵入…訪問してきた。

「今世紀って始まったばっかやん!?ンなトコでのんびり突っ立って見てんと、こない痛がってはんのやから、何とかすんの手伝うて下さいよッ!?」

「…それには、私への依頼も入っておるのか?」

 背後から熱気さえ冷やしてしまいそうな静かな声が響いた。現れた姿も、外気温など関係なさそうな、至って涼しげな表情だ。


 * * *


 火と水、水と油、何にせよ対照的な二人は、下のエントランスで鉢合わせしたらしい。帰ることは出来ても、此処まで来られない若君は、来る時だけは未だにマンション前まで黒塗り高級車で送って貰っている。下まで来たとギンに連絡しようとした矢先、後から着いた営業課長に声を掛けられたようだ。

「エントランスで見た時は我が目を疑ったぞ。よもや家主殿の友人が、このような下賎な身形をするとは思わなかったのでな。他人の空似かと思ったのだが、よもや当人とは…」

 河原でのバーベキューの時は、勇敢にも爽やか系キャラ衣装にチャレンジしていた為、若君は普段着の営業課長を知らないのだ。

「エントランスに拒絶されて悩んでたボンボンに言われたかないね」

 バーベキュー以来顔を合わせていないはずだが、仲が良いのか悪いのか分からない言い争いをしている。一つ確実なのは、第一にして最大の障害、エントランスで暗証番号を入力して突破し、直接玄関先まで現れる人物が一人増えたという事実だ。

「何故鍵を渡したのだ?」

 若君でなくとも尤もな疑問である。イヅル自身、不本意極まりないのだ。例の課長代理から、ギンを出来るだけ遠ざけてやるから、マンションの合鍵をくれと、交換条件を出された。イヅルが呑まざるを得ない条件を出されては、合鍵を渡さない訳にはいかなかったのである。

「世間知らずのお坊ちゃんには分からねぇ、大人の事情ってヤツがあんだよ」

「脅迫か…汚い手を…」

「あぁン?『取り引き』ってんだよッ!」

 口喧嘩になるくらいなら、何も隣り合わせに座らなくても良いのにと、真っ当な感想を抱きながら、ギンは「まァまァ」と宥めすかし、茶を淹れて二人に勧めた。ヤンキー課長と若君の二人に運ばれたイヅルは、唸りながらまだソファーで撃沈している。

「今朝摘んだ新芽のハーブで淹れてみたんやけど」

「…いい…香り、でしょ?…味も…」

 今朝、真っ先に飲んだイヅルが呻き声の合間から同意を求めた。

「そんな死にそうな声で切羽詰まって言われてもなぁ…いや、美味いけど」

 若君は優雅に飲み干し、無言で頷く。どうやら口に合ったらしい。家ではもっと高級な茶を飲んでいるだろうに、此処で出される一切に文句をつけた試しはない。他家を訪問する礼儀は厳しくしつけられてきたと言っていた。が、若がギン相手に気取ったり世辞を言う必要はないので、多分本当に口に合ったのだろう。茶菓子に煎餅盛り合わせの籠を出してから、ようやく訪問の目的を訊いた。

「で、二人とも、何しに来はったん?」

「んなモン夏休みのアポに決まっ…「我が家の別荘へ避暑に行かぬか?気に入った客間は幾部屋使っても構わぬ。海沿いで風通しも良いし、プライベートビーチもある」

 会話を遮っただの、先にマンションに着いていたのは自分だから、先に切り出す権利があるだのと、またギャイギャイと言い争いが始まった。


 * * *


 昨晩、久し振りに涼しい風が吹いていたベランダに出て、部屋から洩れる灯りの中でハーブの新芽を見付けたり、何処かの花火大会の音だけを聞きながら、初めての夏はどうしようか、という話になった。

「夏期休業は月末の試験明けから九月半ばまでだったっけ?」

「うん、確かそうやったはずやけど」

「僕は長い休みは取れないけど、五月以来だから、お爺ちゃんお婆ちゃんに会いに行く?」

「それなんやけど…」

 老父母から、大学生になって初めての夏休みなのだから、イヅルと二人でも良いし、新しく出来た友達と何処かへ遊びに行けば良い、と先を見越したような手紙が届いたばかりだった。

 ギンがポケットから出した手紙を、部屋からの灯りで読んだイヅルは、本当にギンを大切に思っている二人の心遣いに感謝した。

「じゃ、お言葉に甘えてどっか出掛けようか?海水浴とか、どうかな?…あ、臨海学習とかで行き慣れちゃってるかな?」

 ギンの地元から北に出れば日本海だ。海水浴場ぐらいある。中学も高校も、一回ずつそのような行事も確かにあったし、連絡のプリントも貰っていたが、保護者を名乗る男に、いつの間にか勝手に取り消されていて不参加だった。

 あの高級マンションでの囲われる人形になるまでは、水泳は好きだったし得意だった。あの男が不在にした隙に入った風呂で、鏡に映った姿を見て、愕然とした日を忘れない。子供心に人目に晒したくない痣や情痕を頻繁に付けられ、身体中から消えなくなってからは水泳だけでなく、体育の授業も欠席するようになった。

「ううん…泳ぐんは好きやったし、海は嫌いやなかったよ…ただホンマに久し振りなだけで…」

 行くなら何年ぶりになるのだろう?と指折り数えてみる。「十年近ぅ、やろか?」と声は笑っていたが、表情は長い前髪が邪魔をして、イヅルからは笑った口元しか見えなかった。


 * * *


 躯を繋げたまま、ゆるりと脇から胸元まで辿り、すっかり色付いてピンと主張する粒を、撫でたり潰したり指先で摘み上げたりしながら、嬌声を上げるギンの耳許から首筋、鎖骨まで口吻けを落としていく。

「海や泳ぐのが嫌いじゃなかった、なのに十年ぶりっていう理由は、これ?」

 鎖骨の下、胸の飾りのすぐ横を一際強く吸い上げて、一週間ぶりに紅の花を咲かせる。ギンが感じ入るポイントは外さない。一面の花畑を作っていく。その都度、高く甘く啼くギンの声と、甘美に締め上げ、もっと奥へと誘う内部の熱さに「ふぅ…」と、一息ついて波を逃し、すがり付く腕の力に満足する。

 初めて逢った晩に、縛られたらしい縄目や、殴られた青痣の痕が沢山あったのを思い出す。数日前に受けた折檻の跡だと言っていた。そんな扱いを受けていた十代はじめなら、水泳の授業はおろか、同級生に着替えを見られるのも嫌だったに違いない。転校してきたばかりの男子生徒に、青だけでなく紅い痕まであれば、同級生は親に尋ねるだろう。瞬く間に広がる噂に開き直るには、いくら何でも幼な過ぎる。その前に出逢っていたら、何かが変わっていただろうか…?

「ね?瞳を見せて?」

 涙の膜が薄く張った瞳が覗く。淡いヘイズ・ブルーからアクアマリンへ変わっている。つい先ほど昔を思い出させてしまったので、もしかしたら緋に戻るかもしれないと、柄にもなくイヅルの方が怯えていたのだが、ギンには気にする余裕がないらしく、腕を伸ばし、イヅルにしがみ付いて口吻けを強請る。銀糸の髪を絡め取るように抱き寄せてから、鼻先が曲がるほどに近寄せて、薄い唇を貪る。

「…んんッ…んぅ…はッ…あ、…あッ、あッ、あァん…」

 息苦しそうな口を解放して、軽く揺すってやるだけで食い千切られるか、意識ごと持っていかれそうになる。今、抱かれるのをギン自身が許しているのはイヅルだけだ。そのギンを他の誰かが抱くのをイヅルが許さない限り、この甘い戯れはいつまでも二人だけのもの。欲しいだけ与え、欲しいだけ受け入れる。本来は繋がれない躯を、唯、想いだけで繋ぐ。結ばれるべくして結ばれたと信じたい。

「…良…サ、…あんッ…」

 想いは欲に直結する。更に嵩を増した灼熱に弾けそうな欲をただ伝えたくて、想いのまま打ち付ける。時を同じくして熱く蕩けた内部をひたすら穿つ。片手で肩へ担いだ膝を抱え、片手はしっかりと指を絡ませたまま、知り尽くした躯の弱い箇所をピンポイントで、速さを上げても外すことなく擦りながら攻め上げていく。

「やぁッ!…もぉ…ッ…き、らサ…イクぅ…あッあッあッあッ…あああァッ…」

 達する瞬間に呼ばれる名が、最も甘く響き、腰にクる。ラストスパートで自らの高みを目指す。イヅルとの間で擦られていたギンの先端から溢れ続ける密に滑りを助けられ、最後に一際深くまで踏み込んで注ぎ込むのは、溢れそうな想いの雫石。ギンだけがイヅルの身も心も、何時も満足させる。覗き込んだ時に、細く笑み涙を湛えた瞳の色が澄んだブルーだったことに、酷く安堵した。


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