ギンイヅ詰め合わせ

□Trade secrete
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 野鳥の鳴き声が藤棚を渡る仄かな薫りの風と共に吹き抜ける。鬱蒼と生い茂る緑の濃さは息が詰まる程の心地好さを生む盛夏。
「風も緑も、何もかも気持ち良いですね」
 遮るもののない渓谷を縦横無尽に吹く風に煽られた髪を手で押さえるイヅルが、後ろを歩いていたギンを振り向いて屈託なく笑った。顔色も明るいし、眉間に普段の険は全くない。
 誘ってみて良かったな、とギンは笑みを返した。都会の喧騒から逃れること二時間。イヅルは上手く精神的な疲れを隠している心算だったようだが、ギンの目は誤魔化せなかった。
『今度の週末、空気の綺麗なとこ行きたいんやけど』
 自分の願望であるかのように告げればそれだけで良かった。イヅルは決してギンに否と言わない。
『この時期だったら、やっぱり海、ですか?』
 微かな期待を孕む声色で返したイヅルに、ギンは当日のお楽しみだと言って電話を切った。
 待ち合わせた駅でイヅルを拾い、そのまま郊外へギンは車を走らせた。いつものように助手席で大人しくしているかと思いきや、イヅルは職場でのギンのつれなさを詰り始めた。
『もっと声をかけて欲しい』
『同僚に比べて扱いが冷淡だ』
『せめて話をする時は目を合わせてくれ』
 ギンとしてはイヅルを他の部下と同じように扱ってきたつもりだった。だが、イヅルは違うと言う。驚いた。と同時に、素直に拗ねてみせるイヅルを可愛らしいと感じた。
 今はすっかり愚痴も鳴りを潜め、空を仰いだり周囲の風景を見回したり、崖の下を覗き込んだりしては感嘆の吐息を洩らしている。
「こういうのを『魂の洗濯』って呼ぶんでしょうね。じゃなかったら『世俗の垢を落とす』とか?とにかく生き返る、みたいな感じ、久し振りです」
 今まで自分には気分転換のレジャーなど必要ないと思っていた、とギンを振り返る笑顔が、緑の狭間で生き生きと輝く。久方ぶりの笑顔にギンの頬も緩む。頭上を行き交う小鳥の囀ずりさえイヅルには新鮮らしく、群れに引き寄せられるように駆け出した。
 下調べ通りならこの先に釣り橋がある。川底からの風を受けられる特等席だ。そこでなら誰の邪魔も入らないし、イヅルに逃げられる心配もない。ギンは最初から橋で勝負をつける予定で来ていた。薄手のジャケット越しに胸元へ小さくても固い感触が存在をアピールしている。思わず漏れそうになる笑みを堪え、ギンはイヅルに注意した。
「あんま急いだら転ぶで」
 手を振って大丈夫だとイヅルが張り上げた声が谷間を谺する。淡いお日様色が緑の濃淡の中を跳ねていく。もうすぐ社会人になって片手ほどの年数が過ぎるとは思えない無邪気さで。
 安穏とした当たり前の幸せとは無縁だと諦めていたギンでも、彼となら穏やかな日々が過ごせるのではないか、と錯覚してしまうほどの生真面目さと…天然と紙一重の無邪気さは、いつしか他人に無関心だったギンを『人』に戻していった。
「あそこまで素直に喜ばれると、なんや逆に悪いことしとるみたいやわ…」
 それでも連れて来て良かった、と思う。これだけ空気が澄んでいると、いつもはイヅルに文句を言われる煙草にも手が伸びない。良いことづくめだ。抜けるように蒼い空や、際立つ稜線、遥か下から届く川のせせらぎに耳を澄ませるイヅルに気取られないように、ギンは背中を向けてガッツポーズを決めた。
(グッジョブ、ボク!)
 かなり離れた所から呼ぶ声に誘われ、ギンは急いで後を追いかけた。

 ギンが追い付いた時には、イヅルは両手で手摺に掴まってすいぶん先まで進んでいた。おそるおそるといった風情が可愛らしい。ギンはイヅルを驚かせないよう、ぎしぎし…と軋む木の板の上を一枚ずつ慎重に歩を進めた。
「こないなとこまで一人で来よってからに…。とんだお転婆さんやなぁ」
 あと数歩で追い付くところまでギンが来たとき、顔を伏せていたイヅルの口許が悪戯っぽい笑みの形に歪んだ。手摺を掴む手に力を籠めたイヅルが踏ん張った両足に弾みを付ける。
「え、えぇー!?うわああぁ」
 釣り橋が悲鳴を上げて大きく揺れ始める。片手で手摺に掴まっていたギンはなんとか体勢を整えようと必死だ。いつも余裕綽々なギンが慌てる様をみて、イヅルが声を上げて笑う。
「吊り橋効果ってご存知ですか?ほら、これだけ揺れてたら恋に堕ちた気分になりませんか?市丸さん、僕と恋に堕ちちゃいますね」
 気分になるどころではないし、「うん、堕ちちゃった」と軽く返せる状況でもない。下は流量の少ない川。剥き出しの岩肌も今なら良く見える。元から掴まっていた片手を頼りに、ギンはなんとかもう片方の手摺へ手を伸ばした。その時、ギンのジャケットから光る何かが板の隙間から崖下に落ちていった。
「あっ」
 イヅルが反射的に手を伸ばす。橋が大きく傾むくのもお構いなしに身を乗り出すイヅルの腰を抱いて、ギンはその場に座り込んだ。
「良ぇの!先に橋揺らしてイヅルに惚れて貰お、とか思とったバチが当たっただけやからっ!」
「…え?」
 ギンを振り返ったイヅルの目が点になり、それ以上の言葉が続かない。ギンの言葉の内容や真偽はともかく、自分の所為で何か大事な物を落としてしまったのではないか、と往生際悪く隙間から下を覗きこもうとするイヅルを、ギンは苦笑で押しとどめた。
「イヅルの誕生石入れて貰たタイピンや。今日、此処で渡して勝負きめたろ、てな…」
「……はい?」
 頼むから訊き返さないでくれと顔を背けるギンを、イヅルがどこまでも追いかけてくる。
「もしかして…市丸さん…照れてます?」
 このままではいつまで経っても二人仲良くここから動けない。不貞腐れたようにギンはそっぽを向いた。台詞は棒読み。
「えぇ、おっしゃる通り照れてますしイヅル君にメロメロですが、それが何か?」
 遠く近く、少し下手くそな鶯が囀っている。しばらく黙って顔を見合わせていたが、どちらともなく笑いがこみ上げてきた。
「ふふ…。トレードシークレットですね、了解しました、市丸部長」
 四つん這いでギンを正面から見据えたイヅルは、ギンの知るどの笑顔より輝いた表情を浮かべていた。


2012.8.16

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