ギンイヅ詰め合わせ

□指煩い
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 教育実習二日目の通学(通勤?)電車に揺られていたイヅルは、昨日の朝礼で出逢った少女の面ざしを車窓に思い描いていた。少女というには語弊があるな、と苦笑した。同じ教育実習生なのだから一、二年しか変わらないだろう。
(可愛い子だったな…名前、ちゃんと聞いとけば良かった…)
 きちんと通例に従って各実習生の氏名、在学校、専攻科目などの自己紹介はあったし、イヅルも右に倣った筈だ。自分の番が終わっても緊張が解けずに俯いていたイヅルの耳に、同じ国文化専攻だと告げる明るい声が飛び込んできて、ようやく顔を上げたのだ。声の持ち主に相応しい、気負わない朗らかな表情に見惚れていて聞き逃したのだと知っても後の祭り。それでも些細な仕種さえ可憐な彼女の姿は目蓋に焼き付いている。こんな朝の爽やかな青空は彼女にこそ相応しい…、改めてイヅルが彼女の面影を思い浮かべてぼんやりしていると、カーブに差し掛かった電車が大きく揺れた。
「う、うわっ……え…ええぇっ?」
 次の瞬間には訪れるだろう強い衝撃に目を固く閉じたイヅルは、想像したような痛みとは違った感触におそるおそる眼を開く。最初に入ってきたのは本。そして本を持っている手だった。
(あ。すごく綺麗な指)
 文庫らしい本の内容よりも、その頁の右を支える親指と、次に左を押さえる薬指。その白さと長さ、一見するだけでは手のひらとアンバランスに見える手首の細さに目を奪われた。開かれた頁に所狭しと並ぶ文字たちが恥じらっているように映るのは、先ほどからイヅルが華やいだ気分に浸っていたからかもしれない。骨太さは極めて男性的なのに女性の繊細さを兼ね備えた不思議な造作に、イヅルはすっかり魅了されていた。
「キミ…いつまで乗っとんの?」
 突如、身体の右脇に現れた手を観察していたイヅルの背後から、非難を含んでいるとは思えない悠長な声がかかる。可愛い女の子だったらいつまで乗せていても構わないのだが、と続けられては男のイヅルが立たない訳にはいかない。
「え、あっ、はい、済みませ、」
 立ち上がろうとしたイヅルが咄嗟に手を着いたのは、先刻までイヅルの非礼を許してくれていた人物の腿だった。その固さや張りから見惚れていた手指も男性のものだったのだと改めて気付く。
(男の人、だったんだ…)
「本当に申し訳ありませんでした」
 どうして自分が落胆したのか分からないまま、それでもイヅルは深々と頭を下げて謝罪した。黙んまりの相手が気になる。イヅルが頭を下げた姿勢から様子を窺うと、馬鹿にして見下したような、というより全てを見透かすような鋭い視線とぶつかった。反射的に謝る筈だったイヅルの口調が荒くなる。
「べ…別に僕は疚しいことなんて何もっ」
 イヅルの言い訳を遮って額を本で叩かれた。視界が一目惚れした人差し指で溢れ返り、先刻からイヅルの思考の大半を占めていた少女も実習の内容も綺麗さっぱり消え去っていた。
「何も…何も考えてませんから」
 俯いて口ごもるイヅルの耳に、やけにくぐもった笑い声が飛び込んできた。
「何も訊いてへんのに疾しいこと考えてません、て言うたわ、この子。なぁ、キミ?それって犯人がボクは何にもしてません言うとんのと同じやて気ぃ付いとる?」
 ハメられた…と唇を噛んだイヅルの顔を男が下から覗きこんできた。
「それよか教えて欲しいんやけど」
「何をですか」
「キミの言う『疾しいこと』のな・か・み」
 既に電車の中で初対面の人間が交わす会話ではなくなっているのだが、激しているイヅルは気付いていない。
「だ、だから何も考えてない、って言ってるじゃないですかっ」
 声を荒げたイヅルは目の前で穏やかに振られた手で制された。車窓からの陽射しに輝く真っ白な指に視線も意識も一瞬で奪われる。
―この人の手はどんな風に何に、誰に触れるんだろう…?
 口では何も考えていないと連呼しても、頭が裏切る。指の動く先にいる人物の表情や姿態…それが自分と重なってしまう。勝手に紡がれる妄想が止まらない。イヅルは激しく頭を振った。
「まぁ落ち着きなさい。怒らせるようなこと言うたんはボクや。堪忍な」
 先ほどまで良いように揶揄われていたのにいきなり下手に出られたイヅルは困惑した。どう対応したものか見当がつかない。今まで必死に溜めこんできた知識が全く役に立たないのだ。人を食った態度を取る眼前の男を罵倒すれば気が済むのか、バランスを崩して男の膝に座ってしまった自分を恨めば良いのか、こんな急カーブでなければならない路線を敷いた鉄道会社に怒りの矛先を向ければ良いのか…。深呼吸を一つ、イヅルは吊革に掴まっていた手を放した。
「いえ、こちらこそ膝をお借りしたのに…」
 改めてイヅルが謝罪して顔を上げたとき、男は優雅にページを繰っていた。無視されたというのに怒りは何故か湧かなかった。ただ、左右に惑うように動く右手につられてイヅルの視線も揺れた。
「あの、」
「何?」
 首を傾げて見上げてくる真っすぐな微笑に、イヅルは口に出す予定のなかった疑問を発した。
「それ、何の本を読んでみえるんですか?」
「これ?」
 読みかけの貢を押さえて男が本を振る。しおり代わりと思われるコンビニのレシートが一枚、イヅルの足元に落ちた。拾う必要はないと笑う男に、イヅルは自然に笑顔を返していた。
「僕も手近にあるものを挟むので分かります。便利ですよね、レシートって」
「え?あぁ、うん」
「で、何の本を?」
 男はイヅルに背表紙を見せた。
「エミール。さっぱり分からんけど」
 停車駅が近いの%8

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