ギンイヅ詰め合わせ

□神田川
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『一か月だけ同棲せぇへん?』
満面に笑みを浮かべた市丸が唐突な提案してきたのは三日前の出来事だった。約束の日が明日に迫った夜、勢いに押されて首肯してしまったイヅルは荷物をまとめていた手を止めた。
「でも、なんで一か月限定なんだろう?」
思い付くままにお試し期間とか?と口に出してみてから、両手を着いて項垂れた。
「お試ししてみなきゃ一緒に暮らそうって思ってもらえないなんて…」
とにかく行かなければ市丸の真意は分からない。
翌朝、イヅルは少なめにまとめた荷物を持って出勤し、終業後すぐに市丸との待ち合わせ場所へ急いだ。

「イヅルー、こっちこっち」
市丸が上機嫌で手を振っている。イヅルが駆け寄ると、二人分の荷物を持って歩き始めた。
「で、どこに部屋を取ったんですか?マンスリーマンションですか?」
最も妥当だと思われる物件を挙げたイヅルへ、市丸は得意気に顔の前で指を振った。
「ううん、もっと良ぇトコ」
市丸は鼻唄を歌っているが、一か月という限定された期間で契約が出来る物件など、イヅルには他にはアパートメントホテルくらいしか思いつかない。受験と就活の際に利用したが、それも一週間で結構な額だった記憶がある。費用は気にするな、と笑っていたが…
「此処や。どない、良ぇトコやろ〜?」
確かに費用の心配はないだろう。市丸が指差す先にあったのは、ボロアパートというやつだ。近くに鉄道高架もあり、妙に雰囲気が出ている。
「え、えぇ…」
甲高い音が響く階段を上り、二階突き当たりの部屋の前で市丸が止まる。手招く市丸の下へ着くまでのイヅルの視界に入ってきたのは、廊下にいくつもある洗濯機と、そこからはみ出した洗濯物。お世辞にも住みやすそうな場所とはいえない。イヅルには市丸までの距離が果てしなく遠く感じられた。
「神田川やで、イヅル」
市丸が軋む戸を開けた。入ってすぐに小さな調理台、ところどころ破れが見える押入れ、窓にはガムテープ。六畳間の畳は日に焼けて見る影もない。
「確かに神田川ですね」
来てしまった以上は腹を括るしかない。イヅルは市丸の手から荷物を受け取ると部屋の隅に置き、建て付けの悪い窓を開けた。錆びた鉄柵から身を乗り出すと、高架を走る電車に手が届きそうだ。
どうやら事前に運びこんでおいたらしい荷物の確認をしていた市丸が、今では三畳の下宿などなく、六畳間くらいしか見付からなかったのだと気落ちした声で説明している。
「此処でも十分神田川ですよ、市丸さん」
「ちゃあんと雰囲気出とる?」
「えぇ、もう要らないってくらい出てます」
ほら、とイヅルは隣室との壁を叩いてみせた。プライバシーや防音という概念が足元から崩れ落ちていきそうな音がする。
「ね?」
開け放した窓から轟く轟音で会話が遮られる。思わず耳を塞いで眉を顰めたイヅルに、真横へ立った市丸が耳許で囁いた。
「ほな、雰囲気出たとこで銭湯でも行こっか」
イヅルには最早どんな雰囲気だ、とツッコむ気力もない。市丸に手を引かれるに任せてボロアパートを後にした。

かなり長い時間躊躇したイヅルが腰にタオルを巻いて入っていくと、今にも出ようとしている市丸とすれ違った。
「いくら何でも早すぎます。夜は冷えるし、あの部屋の隙間風は半端なさそうですよ」
もう少し温まった方が良いと忠告するイヅルに、市丸は大丈夫だと笑った。
「ゆっくり温まっといで」
何度も振り返るイヅルの目に、満足げに腰に手を当てて瓶の牛乳を飲んでいる市丸の姿が映っていた。
「ま、市丸さんが楽しいんだったら良っか」
湯船に浸かって頭上を仰ぐと富士山が近い。
「今夜のご飯はコンビニ弁当だな」
帰り道にビールでも一緒に買えば、酔っているうちに暖かく眠れるだろう。イヅルは修学旅行以来の大風呂で、当時は考えもしなかった発想に小さな笑いを零した。

先ほどからイヅルの横で市丸が盛大なくしゃみを連発している。
「だから、そこまで忠実に神田川を再現する必要あったんですか、って聞いてるんです!」
同じ男湯なのだからタイミングが読み辛かったのだ、何にせよイヅルより先に出なければ神田川にならないだろう、と力説する間も市丸のくしゃみは止まらない。
「それで風邪ひいてたら洒落になりません!ご存知だとは思いますが赤でも赤じゃなくても、そもそもマフラー持ってないですからね、僕」
イヅルが終わらせようと言い出さない限り、市丸は神田川ごっこを止めようとはしないだろう。よく思い出してみれば、十日ほど前から市丸は神田川しか口ずさんでいなかったのだ。市丸と一緒に夢を見るのは楽しいし構わないが、風邪をひいて苦しむ市丸の姿をイヅルは見たくない。
「アパートに戻ったら荷物まとめてタクシー拾いましょう」
此処からなら自分の部屋の方が近いし、市丸の着替えや市販の風邪薬もある。看病には事欠かない。
「とにかく拗らせる前に暖まりましょう。で、もし週末に市丸さんの風邪が治ってたら神田川しに戻りましょう、ね?」
次にあのボロアパートへ行く時は赤いマフラーを用意した上て、市丸の首根っこを掴んででも温まらせる方策を考えなければ…、とぶつぶつ呟くイヅルの頬は、高架下の暗闇にもはっきり弛んでいた。
「ところで、何だって一か月限定だったんですか?」
タクシー待ちの合間に、イヅルは気になっていた期間を限定した理由を市丸に尋ねた。
「え?あぁ、神田川みたいな過去形にされたなかったんや……っぶしっ」
イヅルは苦笑しながら鼻水を啜る市丸にティッシュを渡した。
「そんなこと、ある訳ないじゃないですか。どんな突飛なことやらかしても、市丸さんはいつだって僕に優しいですよ」
過去形になんかしませんから、と微笑して市丸が拭き損ねた鼻水をそっと拭った。


2012.11.2

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