ギンイヅ詰め合わせ

□あなたのsheepをかぞえましょう
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 風呂に入って一日の疲れと汗も流したし、さてそろそろ寝ましょうかという段になったとき、市丸は数時間以内に自分が何を食べたのか思い出すのも辛いほどの吐き気に襲われた。
(は…吐きそ…)
 力の入らない手足で厠を目指す。その間にも込み上げる吐き気に、開いている筈の目の前でいくつもの星が飛び交う。
 ようやく厠の戸が見えて安堵していた市丸の頭上に、吉良の訝しむ声が降ってきた。
「どうなさったんです、市丸隊長?」
 振り返ろうにも頭を動かすだけで、此処で出してはいけない物が飛び出してしまいそうなのだ。うつ向いたまま、吉良が異変に気付くのと大きな波が去るのを、市丸はひたすら待った。
 脂汗が床に幾つもの染みを作る様を焦点の定まらない目で追っていると、いつの間にかふわりと覆い被さってきた吉良の手が腹に翳される。
「こんなになるまで我慢する前に呼んで下されば良いものを…」
 いつもは柔らかい苦笑混じりの吉良の声には、非難めいたものが多く含まれていた。
 かなり楽になってきた市丸が、出すものを出してしまえば楽になるだろうと思ったのだ、と告げようとすると、横から顔を除き込んできた吉良が悪戯っぽく笑った。
「でも凄く嬉しいです」
 何が、と問おうと振り返った途端、落ち着いていた筈の吐き気に襲われ、市丸は再び床と懇ろになってしまう。
 慌てて手を翳し直した吉良は、余裕の含み笑いで話を続けた。
「だって身籠って下さったんでしょう?」
 −はい?
「僕の強い想いが宿ったんですよね、隊長の此処に。もう御一人の身体じゃないんですから、くれぐれも無理はなさらず大事にして下さい」
「んな訳ある……っ!」
 大声での否定より先に出たがるものに背中を押され、市丸は厠に飛び込んだ。

 本物の猫も驚く猫背でげっそりと青褪めた…というより土気色になって厠から出てきた市丸に、吉良は用意しておいた塩水と手巾を渡した。
「あんな、イヅル。これはただの食中りや。具合悪うさしたもん全部吐いたら楽んなんの」
 それに、と続けようとした市丸は、冷水を絞った手巾で額に浮かぶ汗を拭おうとした吉良の手を取った。
「孕むんやったらボクや無うてイヅルの方やろ?」
 洗面所まで市丸の後をついてきた吉良が、耳まで真っ赤に染めて反論する。
「そんな筈ありませんっ!想いが強い方の子が出来なきゃ変じゃないですか!」
 何を以て『変』なのか、そも本気で男同士が子を成せると思い込んでいるとしたら、おかしいのは彼の頭の方ではないだろうか…。市丸は塩水でうがいをすると、律儀に市丸を待っている吉良の額に冷えきった手を伸ばした。甲を当てて熱の有無を確かめる。
 かなり熱い。
 いや、ちょっと待て、と市丸はうつ向きがちな吉良の表情を注意深く窺った。
「昼間、ちゃんと水分摂っとる?」
 首筋から耳まで赤いのは単なる照れだろうが、額に触れた手の甲から伝わる熱さは尋常ではない。疑うべきは熱中症。市丸は普段は消えることのない揶揄を全く感じさせない低い声で吉良を問い詰める。
「えっと…その…多分?」
 急に歯切れの悪くなった吉良を抱き上げ、市丸は寝床に強制連行した。
「ほんま平気な振りも大概にせぇよ。ちょっと其処で大人しい待っとき。もうじき酷い悪阻が来る筈やから」
 軽口はお互い様。そのうち先ほど市丸が襲われた以上の吐き気や寒気に襲われるだろう吉良の為に、市丸は桶や水差し、沢山の手巾に幾つもの氷袋を用意した。
 苦しむ吉良の姿を見たくない、という強い思いを前にして先刻まであった筈の吐き気は簡単に吹き飛んでいた。

 熱を持った時に冷やすと良いといわれる箇所へ、小まめに詰め替えた氷袋を宛がっていた市丸に、吉良は心底済まなそうな顔を向けた。
「ご心配お掛けして申し訳ありませんでした。僕ならもう大丈夫です。それより隊長の方が…」
 おずおずと伸ばされた吉良の手が市丸の頬に触れる。
「まだお顔の色が優れないのに…」
 布団の傍らに腰を据えていた市丸は、ならば遠慮なく、と吉良の隣へ半ば強引に寝転がった。
「ほな、我が儘きいて貰おっか。ボクが寝付くまで手ぇ握っとってな、イヅル」
「?そんな簡単なことで良いんですか?」
 そんな単純で些細な触れ合いがどれほど貴重か知らないのは、市丸に教えた本人ばかり。敢えて素知らぬ振りを貫くのが年長者の余裕だ、と市丸は自分に言い訳をして吉良に甘える。
「うん。吐き気でしんどかった所為か、神経たかぶっとって寝付かれへんから」
 しっかり握り返された手に頬擦りする市丸の髪を、体の向きを僅かに変えた吉良が撫でた。
「眠れない時は羊の数を数えると良いんですよ」
「ふぅん。ほなイヅルが数えて」
 市丸はわざとらしく口を尖らせた。優しく髪を梳く指の感触を楽しんでいたいのだ。
「僕が数えて先に寝ちゃったらどうするんですか」
 呆れ声の吉良に、市丸は含み笑いを漏らす。
「ほな、羊の代わりにちゅーしても良ぇ?良う効くお呪いやし」
 市丸がまだ微かに熱を帯びた吉良の胸元にすり寄って甘える。滅多に体調を崩さないから気弱になっているのか、と一瞬でも考えた数拍前の自分を吉良は激しく後悔した。
「…それは決して目覚めないと云われるお姫様を目覚めさせる為のものです。寝付く為の呪いじゃありませんよ」
 えー、と更に口を尖らせて不貞腐れる市丸に、吉良は苦笑を禁じえない。
「ま、良ぇわ。手ぇ離さんとってな」
「…はい」
 微妙に残る気怠さに眼が冴えてしまっていて眠気がなかなか訪れてくれない。吉良は強弱をつけて握られる手に気付いて、そっと市丸に声をかけた。
「お眠りになれないんですか?」
「うーん…」
 生返事を返すだけの市丸に、吉良の眉間に影が差す。
「いやな、イヅルの手て温いし柔らかいな、思て」
 吉良は市丸の髪を梳いていた方の手を灯りに翳してみた。節張っていて柔らかさの欠片も見付からない。溜め息だけが零れる。
「なぁ、イヅル、やっぱちゅーして良ぇやろか?」
「つい先ほども、それは物語の中のお姫様を…っ!」
 市丸は声を張り上げようとした吉良の口を指で塞いだ。
「そないカリカリしたら寝れるもんも寝れへんなるで?」
 誰の所為だと顔を背けた吉良の耳許で、ならば責任をとってやろうか、と意味深に市丸が囁く。
「…え?」
 身を竦ませて反射的に振り返った吉良は、悪戯が成功して喜んでいる市丸の極上の笑みにげんなりした。
「あぁ、気にせんで良ぇよ。イヅルが寝付くまでボクが責任もって何匹でも羊数えたるから」
 目が覚めたら何匹まで数えたか教えてやるから楽しみにしておけ、と少し窶れ顔のまま喉の奥を震わせて笑う市丸に、吉良は今だけで構わないから狸寝入りが上達してくれないだろうか、と心から願った。



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