パラレル番外地

□若葉色19th
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 * * *


 見上げた部屋の窓に灯りが点いている。どんな季節でも、帰るべき部屋の灯りは、イヅルにとって温もりそのものだ。帰って来ない筈の彼が帰宅しているのかもしれない、とイヅルは期待で胸を膨らませた。最上階で止まったエレベーターから角部屋まで駆けた…といっても距離にして十数メートルほどしかない。だが、真っ暗だとばかり思い込んでいた部屋から洩れる灯りの引力には逆らえず、足が気持ちに追い付かない。何十年ぶりに百メートルを全力疾走した後のような疲労感と、今にも破裂しそうな鼓動が全身を震わせた。

 震えが止まらない手で解錠する。待ち望むのは、柔らかい響きを伴った『おかえりなさい』の一言と、声の持ち主の笑顔。彼ならば解錠の音と同時にリビングのドアを開けて出迎えてくれる。玄関ドアの施錠を終えたイヅルは、無意識でただいま、と声に出していた。ダイニングへ続く廊下の先、ドアが開く音に、イヅルの期待は嫌が応でも膨らんでしまう。振り向いた視界の隅に、白いエプロンの裾らしき物が翻った。


「お帰りなさい、ア・ナ・タ。晩御飯、出来てるわよー」

「……なんで先輩が来てるんですか…っていうか、帰って下さい…。今、僕のそんなに長くない人生史上で最大を記録するぐらい不愉快でなりません」

 つれないのねー、等と科(しな)を作って媚を売る態度に、イヅルの胸は不快感で焼け付きそうになる。彼ならば科を作らずとも、はにかんだ笑顔一つでイヅルの疲れを吹き飛ばしてくれるというのに、我が家に帰宅して早々、一年分の疲れを背負い込んでしまった。エントランスで感じていたイヅルの食欲は、今や遠くへ旅立ってしまっていた。

「なんでぇ、独りっきりの週末なんざ久し振りで泣いてっかと思って来てやった上に、せっかく割烹着のおニュー買ってきて、栄養バランスとれる手料理作って待っててやってたってのによぉ。そんな先輩に、幾らなんでもその態度は無いんじゃねぇの?」

 腕組みしてドアに凭れるヤンキー課長の横を通り抜ける時、そうですか、わざわざ新しい割烹着の裾にフリルまで縫い付けるくらい暇だったんですね、とイヅルは言葉に出さずに視線に皮肉を籠めて咎めた。

「だーかーらー!俺だって頼まれたから来ただけなんだからよー…いや、楽しみじゃなかったって言ったら嘘んなっけど…フリル付けたのは遊び心であって、そこまで暇じゃねぇし…兎に角だ、その責めるみてぇなジト目は止めてって言ってんの!」

 文句を背中で聞き流しながら、寝室のドアを多少乱暴に閉めた。ネクタイを弛める手を止めたイヅルはいつもの部屋着には替えず、普段着に着替えて今夜も外食にしようと決めた。

「まだあと十日以上もあるんだから、期待する方が馬鹿なんだってことくらい分かってるけど…先輩も質が悪いから、」

 ぶつぶつと愚痴を吐きながら床に置いてあるポーチに手を伸ばそうと屈んだイヅルの頭頂を、勢い良く開けられたドアが直撃した。

「口と質は悪くても、いや、少なくともお前よか性格は悪くない…筈だッ!それに!料理の腕と味は一流なんですぅッ!!何、その今から表に食いに出ま〜す的な格好とか態度!?」

 着崩したリーマンスタイルに、場違い感が満載のレースのフリル付き割烹着姿で喚き立てる長年の友人に、貴方との付き合いは金輪際お断りします、の三行半が出かかったが、イヅルは気合いで呑み込んだ。聞き間違いでなければ、確か先ほどの台詞の中に『頼まれた』という単語があったような気がする。


 誰よりもギンを理解してくれる友達だと認めたくないと言い張りつつも、類友である若君と共にギンが大きめのリュックを背負って旅立った日から二日、本当に久し振りに独りで迎える週末だった。


 * * *


 時を遡ること十日。

 毎月のバイト代が振り込まれている通帳と何かのカタログを手に、ギンはイヅルに茶を出してから隣の椅子に腰掛けた。

「吉良サン、若と一緒に車の免許取ろ、てハナシしとったんやけど、良ぇですやろか?」

 通帳も持ち出してきたところをみると、自動車免許取得にかかる緒費用を捻出できるだけの余裕を稼いだ、という意味だろう。自分の稼ぎをギン自身の為に遣うことに対して、イヅルには拒否する資格も反対する理由もない。元よりイヅルは口出しするつもりなど毛頭なかったが、留学と自動車免許に関してだけは、簡単に首を縦に振れなかった。

「君も知ってると思うけど、車校の教習員は男が多いし、教習車の中って密室なんだよ?」

 聞き慣れない不思議な言語でも耳にしたような表情で首を傾げるギンに、イヅルは苦笑混じりで説明を加えた。

「若と違う学科になったり、二時間連続で教習車に乗ることになった時、先輩や若みたいな抵抗力がない指導教官に当たったら、逃げ場がないんだよ?下手に断ってハンコ貰えない、なんて理不尽じゃない?」

 しっかりイヅルの話に耳を傾けてはいるが、ギンとしては諦め切れないらしく、パラパラと二冊のカタログで手遊びをしている。薄い一冊は大学で配られていた割引きのお報せのようだ。イヅルとしては、幾らか出してくれ、と頼って甘えて欲しい焦れったさもあるが、あくまでも安く済ませようとするギンの姿勢は微笑ましい。だがイヅルはどうしても見逃せない、残りの分厚い一冊の方に釘付けになった。

「合宿!?合宿なの!?それって確か日数限定じゃなかったっけ!?こないだも券売機に遊ばれてた若君が、そんな短期間で免許取れるの!?」

「ちょ…吉良サン、それ言い過ぎ。若も三回に一回ぐらいしか遊ばれんくなりましたって」

 ギンはイヅルが三回のうち一回弄ばれた場面に運悪く出会しただけだと苦笑するが、イヅルに言わせればブレーキを踏まなければならない場面で、三回のうち一回でも間違えてアクセルを踏もうものなら、確実に仮免許試験にも落ちるだろうし、路上に出れば事故を起こすこと請け合いだ。最初の頃から比べれば慣れたようでいて、かの御曹司は自分から香辛料以外の無機物、特に機械の類と親睦を深めるつもりは更々ない様に見える。機械の方からフレンドリーに歩み寄ってきてくれる日など、永遠に訪れはしないのだ。

「それにボクはMTの予定やけど、若はATやから、ボク二日は滑っても良ぇ猶予がある計算なんですわ」

 二人とも、稀にみるオールマイティな優秀さを誇っている。イヅルは何をやらせても抜かり無くこなす、ギンの要領の良さと飲み込みの早さを知っている。一方頑固さが勝る若君も、かなりレトロな種類の機械とはいえ、格闘ゲームならば言い出しっぺより遥かに強くなった。だが若君にはギンより二日分しか猶予がない。ゴーカート並みの大型な無機物と懇意に付き合おうとする心積りがなければ、置いてきぼりを喰らうのは若君の方だ。そうなると帰りの電車で一人になるギンが、イヅルには心配で仕方ない。

「本籍はお爺ちゃんトコにしてあるから頼んであるんやけど、住民票、現住所は此処…吉良サンとこやモンで、取り寄せても良ぇですやろか?あ!あと、本籍なんやけど、合宿から帰ってきたら吉良サンと一緒んトコに変えても良ェかな?お爺ちゃんに毎回頼むんもなんやし…」

 住民票ならば大学の休み時間を利用できるギンの方が、会社勤めのイヅルより時間に自由が利く。大学に提出する書類には、住民票添付が必要な場合もあるため、一々イヅルの許可など取らなくても、ギンには好きに取り寄せて良いと伝えてある。だが、ギンは今回のように、毎回律儀にイヅルの許可を取っていた。

「本籍ならついでに変えれば良いじゃない?そんなに急ぐ話でもないんでしょ?」

 若君の方から攻略したら諦めてくれるかもしれない、と一縷の希望を胸に秘め、イヅルはギンに出発予定日を尋ねてみた。

「出発予定日は…えっと…来週の木曜日やったかな?それ逃すと、休める講義の都合とか、経理の仕事も忙しなりますやん?ほしたら一ヶ月後ンなってしまうモンで、試験期間とか夏休みに入ってまうから…」

「来週!?」

 一度こうと決めたギンは梃子でも動かない。保護者としてのイヅルは反対したかったが、大学の講義予定は勿論、バイト先である経理一課の都合まで持ち出されては、課の責任者として許可しない訳にはいかない。結局、無理やりも無理やり、強制的に諦めの境地に辿り着かされたイヅルは、それでも笑ってギンを見送ろう、無事に帰って来るのを待とう、と覚悟を決めた。


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