歌舞伎能

□ちっちゃな恋の物語
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 気の良い大将と女将が夫婦二人で切り盛りしている、馴染みになって数年来の居酒屋で待ち合わせた。十に充たないカウンターと、二つきりのテーブル席の小ぢんまりした店。カウンターに陣取り、大将達と楽しく会話しながら飲んだ週末の夜。終電間近だというに、夏の暑さがアスファルトから立ち上っている。



 ギンと乱菊は適度な距離感を保ちながら肩を並べて、酔っ払いが帰り道に迷うようにふらふらしている駅前通りを歩いていた。


 「あたしさぁ、」


 ハンドバッグを振り回しながら、千鳥足がもつれ、ギンより数歩先になった乱菊は、満面の笑顔でギンを振り向き、舌足らずな口調で唐突に話し始めた。


 「今日ね、せんむとぶちょーに、見合いしてみない?って言われちゃった」

 「ふぅん…」


 どうせ酔っ払いの何時もの戯言だろうと、あまり気にも留めずに聞いていたギンは、やはり何時もの生返事で済ます。


 「ギン、聞いてないッ!」

 「ちゃあんと聞いてますよ〜。乱菊、今度見合いすんのやろ?」


 間延びした返事にカチンときた乱菊は、意外にしっかりした足取りでギンに詰め寄ると、胸ぐらを締め上げた。


 「じゃ、信じてない」


 掴まれた胸元はそのままで、ギンは「ヨシヨシ、えェ子やね」と、駄々を捏ねる子供を宥めすかすように乱菊の髪を撫でた。酔いで染まった頬を膨らませる表情も可愛ェよな…等と呑気なギンを、更に乱菊は喧嘩越しに詰る。


 「信じてくれないギンなんか知らないッ!もう良いもんッ!見合い話、受けるもんッ!で、良さそうな男性だったら、結婚しちゃうんだからねっ!」


 通り過ぎる人達は誰も彼も、二人を認識出来ないほどの酔っ払いか、会話を認識出来るくらい素面でも、恋人同士の痴話喧嘩ぐらいにしか見ていない。


 「そうなん?」

 「そうするのっ!アンタより誠実で、家庭を大事にしてくれそうな男だったら、今度こそちゃんと結婚するんだから」


 ギンを睨み付ける乱菊の瞳に涙が浮かんでいた。だが、それも何時ものことで、この時期さえ過ぎてしまえば、また元気で陽気な元通りの乱菊に戻るのだ。




 …9月…




 この数年、何回か乱菊は勧められた見合い話を受けて、二回は婚約までした。一度は式場まで予約してから破談を言い出し、その賠償は全額ギンが支払った。



 『…アンタが何にも言わないから…、はっきりしないから…』


 見合いしたのも、婚約したのも、全て乱菊が決めたことだと突き放せば良かったのかもしれない。ただ、ギンにはそれが出来なかった。

 乱菊の横に居るのが自分でなくても、乱菊が幸せならそれで良いと諦めた。なのに、翌日にはドレスと新婚旅行の行き先を決める段になった前夜、何も聞かず、何も言わずに匿ってくれと、乱菊はギンの部屋に押し掛けて来た。背中合わせで座り込んだまま、丸一日が過ぎた。


 『断っちゃった…』


 一言だけ、そう言って笑った乱菊は、「じゃ、後はヨロシク!」と出ていったあと、一ヶ月間、行方を眩ました。ギンの部屋に置き去りにされた携帯は鳴り止まず、見兼ねたギンが出てみれば、乱菊の兄扱いされた上に、予約した式場の賠償をさせられた。


 気儘な乱菊に振り回されるのには慣れている。幼い頃からの付き合いだ。何も聞かない約束は守ったが、「大変だった」とだけ、愚痴は零させてもらったら、


 『ギンがはっきりしないから悪いのよ…』


 と言われたのだ。ついでに、「気儘、我が儘はアンタも同じでしょ?」と言い返された。あれは、確か丁度二年前の今の時期のことだった。





 駅前の、円形になっている噴水の縁に並んで座っている。


 「乱菊?水か何か買うて来たろか?」

 「…要らない」


 乱菊は、縁に手を付いて投げ出したヒールの爪先をクロスさせて遊んでいる。綺麗に縁取られた唇を軽く噛んでいる。言い出し辛い何かを言い澱む時の癖だ。ギンは黙って待つ。急かしてしまったら、喧嘩になるのは必須。怒らせるのは構わない。怒鳴り散らして気が済むなら安いものだ。だが、泣かせたくはない。


 「優しくて…」

 「…うん」

 「家族を大事にしてくれる良い父親になれて…」

 「…うん」

 「誠実で、嘘吐いたり隠し事しなくて…」

 「…うん」


 そこで乱菊は空を見上げた。僅かに残る熱気が抜け始め、少し高くなったかな、と感じる空を見上げた。


 「誰よりもあたしを愛してくれる、ひとが…」

 「……うん」


 ギンは『ジューンブライド』ならぬ『セプテンバーブライド』だな、と考えていた。そんな言葉があるなら、今の状態は『セプテンバーブルー』とでも名付けたらピッタリかもしれない。乱菊ならば、夏の陽気と生命力を集めたものが一気に花開く時期に、どの花よりも誰よりも輝くような花嫁になれるだろう。その名に負けない、咲き乱れる花になれる。


 「……と思ってんの?」

 「…うん」

 「また、聞いてない」

 「…うん?」


 横の乱菊を見たが、うつ向いてしまっていて顔や表情は見えない。ぎりぎり見える綺麗な形をした顎に、取り敢えず光るモノは見えない。泣いてはいないようだと安心した。


 「そんな男性を好きになって、結婚出来たら良いのに、幸せになれるって分かってるのに、好きになれないの。そういう男に惚れたいのに、無理なのよ…。アンタ、自分のせいだって分かってる?」

 「全部ボクのせいやの?」


 酔いの回った頭で、ギンは手っ取り早く、ここ十年の記憶を漁ってみた。一度も「好きだ」と言っていなければ、言われてもいない。物心ついた頃には一緒に居て、それが当たり前になっていた。勤める会社が別々になっても、顔を見たい、声を聞きたくなってきたら、たいがい乱菊から「飲みに行かない?」との誘いがあった。


 …どおりで『乱菊不足』ンならんはずやわ…


 逢いたい、顔を見たい、声を聞きたい。それは好きな相手だから。言葉が足りない自覚はあったが、それで乱菊を不安にさせていることにまでは気が回らなかった。


 「…バカ」

 「せやね」

 「少しは否定しなさいよ」

 「やって、ボク、乱菊の言う通り、ホンマに『バカ』やし」

 「会社辞めて、ライバル会社、起こしたり出来ちゃうぐらい頭キレるくせに」


 ギンは一応社長である。乱菊と一緒に入社した大手を二年で辞めて起業した。それ以来、秘書室勤務で専務お気に入りの乱菊は、事ある毎にギンへの嫌味を聞かされ続けてきた。

 今の仕事を続けたい乱菊にとって、ギンは結婚は勿論、単純に交際を続けるにも最悪の相手になる。経営が軌道に乗ってきた頃、ギンは乱菊を引き抜こうとした。その時に専務との間で一悶着があり、以来、古巣とは犬猿の仲になった。乱菊に見合い話を持ち掛けるのも、ギンへの嫌がらせが多分に入っている。


 「…アホなんは分かっとるから」


 いっそのこと、このまま拐ってしまおうか、会社の思惑も、他の男達の目も届かない場所へ連れて逃げようか…?


 「あたしね、」


 乱菊の言葉が、ギンを不穏な思考から呼び戻した。拐うなら今すぐで良いのか、逃げる先は何処が良いかまで、具体的に考え始めていたのだ。


 「今年のギンの誕生日、特別に追加してオマケ付けてあげる。すっごくイイモノよ?」

 「『良いモン』?」


 月末に乱菊の誕生日が来るのは覚えていても、その前の自分の誕生日は毎年忘れる。忘れて怒られるのも恒例化して長い。「イイモノ」と言って悪戯っぽく笑った乱菊は、つい先ほど振り回していたハンドバッグから、ガサガサと一枚の紙を取り出した。随分薄い紙のようだ。無造作に突っ込んでいたのだろう。皺だらけで、所々破れている。


 「じゃーん♪」



 『婚姻届』



 「普通、男のボクが言い出すモンなんちゃうの?」

 「だって、アンタが言い出すの待ってたら、あたしお婆ちゃんになっちゃうじゃない?」

 「そこまで甲斐性ナシに見えとんの?」

 「見えてるから、あたしが用意したんでしょーが」

 「月末の乱菊の誕生日までに、ボクが破れてへん書類も、二人分の保証人の署名捺印も貰って来る。乱菊の分の戸籍抄本も揃えてきて、んで29日に出したらえェようにするし」

 「…やけに詳しくない?って言うか、何で29日に決定なワケ?」


 乱菊が逃亡中の出来事だった。恋愛感情を職場に堂々と持ち込む姿勢に腹が立ったので、直ぐに馘にしたが、女性社員に言い寄られた時に見せられた届出用紙が、ギンの頭を過った。


 「え?せやから、誕生日プレゼントにって…」

 「あたしがギンの誕生日にあげるって言ったの、掠め取って上前はねて、あたしの誕生日、簡単に済まそうって気ね!?さすが『市丸ギン』だわ!やり手で、コマシで、狐顔なギンの癖にっ!」

 「…好き勝手言うてくれるわ…それ、照れ隠し?」

 「…ッ!?」


 ギャイギャイ騒ぐ口を塞いでやった。綺麗で甘い事ばかり言われても不気味だが、乱菊には、出来るだけ乱暴な言葉を使って欲しくないし、似合わない。全部は音にさせず、そのまま舐め取って吸い尽くした。


 「……卑怯者ッ」

 「何が?」


 話し込んでいる間に、とっくに終電の時間が過ぎていた。タクシーでも拾うか、ゆっくり休めそうな適当な宿でも探そうかと提案したギンに、乱菊は無駄遣いするなと反論した。


 「此処、駅前じゃない?ほら、お誂え向きに…」


 乱菊が指差した先はカプセルホテル。独身女性が、疲れたサラリーマンや、小銭しかないようなフリーターと一緒にカプセルホテル?ビジネスホテルとは言わない。だが、せめて24時間営業のファミレスか、百歩譲ってもネットカフェと言って欲しかった。

 婚姻届を出す前に、一番大変な大仕事を発見してしまって、ギンは酷く気落ちした。まず乱菊自身がどれほど『魅力的な女』なのかを自覚して貰わなければ困る。とてもではないが、今年の誕生日には間に合いそうにない。


 「ほな、妥協して終日営業のカラオケでも行きましょか?」

 「いいの?あたし、ガンガン歌っちゃうわよ?寝転がって居眠りなんか出来ないぐらいシャウトするわよ?」



 すっかりその気になった乱菊に腕を引かれて歩く。南天に輝くアンドロメダ座とペガスス座が、そこはかとなく空しく見えたのは、ギンの気のせいではなさそうだ。ペガサスに乗って、見付けた姫を助けて嫁に貰うペルセウスのはずの自分は、この先ずっと、じゃじゃ馬なアンドロメダ姫に振り回されるペガサス止まりらしい。


 …9月、か…


 悪くない。今年からは乱菊が元気で笑っていてくれるなら、もう淋しい秋でなくなるなら、構わない。

 「シャウトだけはせんといて?ボク、明日は朝から得意先の接待あんの…」

 「却下!欠席!接待なんて、部下にやらせなさいよ?いつまでも社長が出張るなんてカッコ悪いわよ?」


 悪戯っぽく笑う、可愛らしい笑顔に、文字どおり『捕まった』。「乱菊には敵わない」。そう愚痴を零したら、やはり「お互い様」と返された。「遅い時間に堪忍な?明日の…や、今日の接待なんやけど…」と連絡を入れてから、数歩先の乱菊が伸ばした手を取った。




 とある秋の夜長の、ありふれた、ほんの一コマの恋物語。






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