歌舞伎能

□月下美人
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月下美人


朝、目が覚めると明らかに自分の部屋ではない場所で寝ていた。
しかも全裸で。
おまけに横では幼なじみの狐が気持ち良さそうに寝息をたてている。
そっと布団をめくって相手の姿を確認し、頭を抱えた。

昨夜は総隊長の屋敷で月下美人が咲くからといって、それを待ちながらの宴会だった。女王の名に相応しい豪奢な美しい花に上等な酒。
したたか酔っていい気分の乱菊を送る羽目になったのはギンだった。
「ちょっと!起きてよ!」
最初は寝ぼけていたギンも誰が自分を揺さぶっているのかに気付いて、いきなり起き上がった。自分と乱菊の格好を見比べて、オロオロしている。
「ねぇ。実はあたし記憶が全っ然無いんだけど、まさか昨夜…あたし、あんたと…。」
「あかん。ボクも記憶飛んでる。」
状況証拠だけは十二分だ。しかし例え、そういう事があったとしても、お互い独り身の妙齢の男女。誰に迷惑をかけるわけでもない。酔った上での間違いなんて、よくある事だと笑い飛ばせる程度の出来事だ。
「何にもなかった!だって記憶にないんだもん、それって何にもしないで寝ちったって事よね。」
「そうそう。記憶に無いことをどうこう出来んしな。」
お互い顔を見合わせて、うんうんと頷いて、なかった事にした

嘘。
昨夜の事は全部覚えてる。ギンだって嘘をついている。忘れてなんかいない。
酔った勢いでもない。
あたし達は思いっきり本気だった。

細い月が照らす道を二人歩いていた。暗い中にほのかに浮かび上がる白い羽織りの背中を見ながら、あたしは黙って後ろをついて行った。
ふいに後ろに手が伸ばされる。
「何?」
「酔っ払ってるやろ。」
子供の頃と同じ。あたしも手を伸ばして、その冷たい指を握った。
胸の奥が甘く痛む。
「ボクんとこで飲み直して行かへん?」
珍しくギンがあたしを誘った。
「寄ってこうかな。」
殺風景なギンの部屋。大きめの切り子のぐい呑みにはほんのり琥珀色の酒。
「この梅酒、美味しい。」
「五席の実家から頂いたんや。十年ものやて。」
「…だからあたしを誘ってくれたの?」
「別に。」
「ギンは優しい。」
「そんな事ないよ。」
「優しいわよ。子供の頃からずっとそう。」
ささやかな月の光がギンの横顔を照らす。昔は当たり前のようにいつも見ていた。
「だから、あたしは、ずっと、ギンを…。」
ギンの唇が、それ以上言ってはいけない、とばかりにあたしの口を塞ぐ。
「ギン…」
好き。大好き。
ずっと前から。

今まで隠し通して来た気持ちが露わになる。
言葉に、態度に。
それはある意味“酔った勢い”かも知れない。
でも、気まぐれなんかじゃない。その証拠に、やっぱりギンはあたしに何にも言ってくれなかった。

“あった”事にしたらギンは二度と手の届かない所へ行ってしまう。だからあたしはバレている嘘をついた。
たった一度の思い出でも幸せだと思っていた。


あれから一年

「おい松本。今夜は総隊長の所で月下美人を愛でる会だと。行くか?」
「もっちろん!タダ酒飲めるチャンスですからね!」
笑うあたしに隊長はあきれてる

あの日あたしは自分にも嘘をついていた。
一度でいいなんて嘘。一度目があれば絶対二度目が欲しくなる。二度目の次は三度目。
それでも、今は願うしかない。

月下美人の花言葉
ただ一度、逢いたい







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