歌舞伎能

□いづにゃん!
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「さて、と」
 ギンはイヅルを膝に乗せ、上手く耳を避けて頭を撫でた。
「ほな始めよか。はい、笑うてみ?」
 ギンを上目遣いで見上げるだけで、イヅルの表情筋は微動だにしない。心なし眉を顰めているように見えるのは、ギンの気の所為ではなかった。いわゆる仏頂面である。
「こないして笑うん」
 ギンは笑顔を作り、わざわざ自分の両頬を指で引き上げてみせる。
 大きな空色の瞳で凝視するだけで、やはりイヅルの表情は動かない。
「ま、良ぇわ。笑うんは自然に出来るようんなるやろ。大事なんは…」
 噛み癖である。此処に連れてくるだけでギンは満身創痍になったのだ。それでもギン同様、可愛らしい見た目に抱っこさせてくれ、と手を伸ばされる場面もあるだろう。その時に警戒心丸出しで噛み付いていては話にならない。
 ギンはイヅルの頬に手を伸ばしてみた。
(あ、頬っぺたやらか…)
…カプッ
「ったぁ」
 見る間に見詰めあっていた蒼天が曇る。ギンも涙目、イヅルも涙目。ある意味ではお揃いの仲良しだが、楽しいお揃いではない。笑わない上に触れる前から牙を剥く前途全難さに、ギンの方が泣きたくて仕方がない。ギンとてイヅルを泣かせたくないのだ。
 ギンは挫けたくなった。だが、ここでギンが挫ければ、イヅルは誰にも触れてもらえなくなる。可愛らしいと篭に入れて飼いたい訳ではないのだ、と自分を叱咤した。僅かに皺の寄ったイヅルの鼻を指先で軽く弾く。
「めっ!」
…じわ…
「泣きなや、っちゅうか離しなさい!」
 小さな鼻を摘まんでやると、イヅルは息苦しさに口を開けた。
「何回も怖ない、て言うとるやん…」
 再度ギンはイヅルの頬に手を伸ばす。
…かぷっ
「めっ!」
…かぷ
「めっ」
 イヅルの瞳は完璧な雨模様。それでもギンはイヅルの僅かな変化を認めた。チャームポイントの耳は垂れ、鼻からは甘い啜り泣きが漏れている。しかも身体を細かく震わせていたのだ。
「あんな、イヅル、良う聞いて。ボクかて手ぇ離せん時もある。そないな時でもみんなに可愛がって貰えるようんなって欲しいんや」
 分かるか、と涙に滲んで揺れる瞳を覗き込む。
…ぺろ
 イヅルは噛み付いていたギンの手を恐る恐る舐め始める。
「イヅルはほんまに優しい子やね、おおきに」
 少しだけ元気を取り戻した耳を避けてギンが頭を撫でると、イヅルは瞳一面に溜まっていた涙を一掃してしまうような笑みを浮かべて頷いた。
「か…可愛いっ」
 あまりの愛らしさにイヅルを力一杯抱き締めたギンは、イヅルに噛まれた上に引っ掻かれ、名誉ある負傷という名の盛大な勲章を頂戴した。




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