立ち読み

□狐福序曲
1ページ/1ページ

 とある日の夕方、午睡と呼ぶには遅すぎる昼寝から目覚めたギンは、二階の硝子窓を開けて街灯に照らされた路上を見下ろした。
「寒っ」
 季節感など無くして何年が過ぎたか、ギン自身も良く覚えていない。ギンは畳に敷きっぱなしの布団に潜り込み直し、枕元のスタンドを灯した。淡い光がぼんやりと周囲を照らし始めた。読み掛けのまま栞を挟むことさえ忘れていた文庫に手を伸ばす。
 先週の週末だったか、引っ越し整理で出てきたといって持ち込まれた大量の古本の中から、勘だけを頼りに面白そうな数冊を選り分けた。その中の一冊である。
「どうせ買うてくれる客なん、来ぃひんからな」
 呟いてから表紙をそっと撫でる。売られる前に一読されたなら幸せだっただろうに題名さえ見て貰えなかったのだろう、可哀想に、と声には出さずに囁く。
 若者だけに限らず『活字離れ』が社会問題になってからかなりの時が過ぎたように感じる。そんなギンは時事を新聞で知り、たまに持ち込まれる雑誌で時流を読む。
「なァ、誰ぞに大切にされたかったか」
 有名無名を問わず文筆家達が万年筆で原稿用紙に書き込んだ文字が印字され、丁寧に表装されて世に出た筈の書籍たち。それらが古臭さを理由に古書店に売られる。古ければ古いほど一冊一冊に籠められた沢山の人の想いは果てなく、大切に愛しんでくれる誰かの手に渡ることを望むだろう。
 それは本だけに限らない。
 人の想いも然り、何かを与え与えられ、慈しみ慈しまれて初めて生まれた価値を得るのかもしれない…
 行き場を無くして持ち込まれた古書に、ギンは自分自身を投影していた。
 望み望まれ愛し愛され、ギンに分け与えられるものは分かち合ってきたつもりだった。通じた想いが永遠だと信じるほど初ではなかったが、それでもギンの空虚を埋めるに足る相手は誰一人として居なかった。
「キミが買うてくれはる人に見付けられんのが先か、ボクが好きんなれる相手に出逢えんのが先か、どっちが早いやろね」
 窓から吹き込んだ風は冷たいだけではなく、僅かな光と薫りを運んでいたように思う。
 閉めた窓の隙間から、近くの高校から下校中の生徒の喧騒が忍び込んでくる。
「あァ、試験の時期やったっけ」
 有名な進学校でもあり、広い敷地には同じ系列の小学校から大学までが建てられており、中等部と高等部だけは男子校になっている。下校時間まで校内の図書室で勉強していたのだろうか、すっかり変声期を過ぎた低い声が様々な語呂合わせや数学の公式を唱えている。
「ふふ…頑張りや」
 ギンは身を起こすと、木枠の桟に指を掛けて長年の汚れが染み着いた硝子に鼻先を押し当て、すっかり暗くなった街路の人影に声援を送った。


 この古書店をイヅルが見付ける、ほんの数日前のお話




[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ