立ち読み

□狐の嫁取り
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 村外れに一人で暮らす娘の許へ豪奢な花嫁衣装が届けられたのは、一年を費やした実りに人々が浮かれている頃だった。
『長月が満ちる頃に迎えを寄越す』
「何、これ」
 娘には添えられていた短い書簡の字を読むだけの知識がなかった。手紙や桐の箱に捺された紋を見ても、家紋などと無縁の暮らしを送ってきた娘に心当たりはない。ただ、派手派手しくない一領の打掛には目を奪われた。綺麗に洗った指先で衿を抓んで持ち上げる。
「き…綺麗…」
 数日後には噂を聞き付けた村人が娘の家に集まった。届いた衣装や手紙を見て、口々に娘を持て囃す。
―領主様に見初められた…
―とうとう殿様が嫁取りを…
 娘は手元の書簡と桐の衣装箱を交互に見比べた。頭の中を一つの単語がぐるぐる回る。
(お殿様、お殿様、お殿様…)
 最初は当惑だけだった。次に娘を襲ったのは後悔。どうして自分が選ばれたのか不思議に思うより先、誰に、という訳でもなく懺悔の言葉を綴っていた。
(ご免なさい、ご免なさいっ)
 人違いかもしれない、と救いを求めて集まっていた村人を見回した。見も知らぬ殿様の許へ嫁ぐくらいなら、村の外れでひっそりと暮らしていたいのだ。
 そんな娘の願いも空しく、娘の前に進み出た村長が現領主の人となりを語りはじめた。
―ほんに良き領主様じゃ。逢うてみれば分かる
 今の領主は先代の家臣でも何でもない、何処かからの流れ者だった。単身で館に乗り込み、先代を殺した。いわゆる簒奪者である。だが、兵法だけでなく政の手腕にも長けていた。彼が一帯を治めるようになってからは攻め入られて土地を荒らされることもなく、戦と無縁の平和な地に変わった。経緯がどうであれ、先代と比べれば遥かに住みやすくなったからこそ、民は現領主の血を引く世継を強く望む。
 それでも、と娘は思う。そこまで評判の良い殿様ならば彼の許へ嫁ぎたいと願う娘は多い筈だ。自分でなくても良いのではないか、と。
 悶々とした日々を送っていた娘の下へ簡素な駕籠が迎えに来たのは、書簡に記されていた通り、長月も末に近い晴天の日だった。
 娘は駕籠を断った。自分の足で行くから今日のところは引き取ってくれと使いの者を追い返し、後ろ手に戸を閉めてから蹲って膝を抱えた。
「お嫁に行くなら…好きになった人が良いって思ってたのに…」
 年頃の娘ならば誰もが一度は見るだろう夢を娘も持っていた。寿命を全う出来るとは限らないからこそ惚れた相手と添い遂げたいと願う。娘も例外ではなかった。
 蹲る娘の小さな影が、湿り気を帯びた土間にくっきりと浮かび上がった。
「なんや、そない嫁に来るんが嫌なんか」
 蹴り倒した戸を塞ぐように、長身の男が逆光を背負って娘を見下ろしていた。着崩した単衣の肩に笞を担いでいる姿は堅気の者とは映らない。怖れ慄く娘は言葉を失った。
「ま、良ぇわ。力ずくで連れてくし」
 腰を抜かした娘の前を素通りした男が草鞋を履いたまま上がり込み、部屋の隅に置かれていた桐の箱で目を留めた。無造作に打掛を引っ張り出すと娘の頭から被せて何事もなかったかのように抱き上げる。
「ほな、行こか」
 何処へと問う暇もなかった。男の肩に担がれたまま、娘は生まれて初めて馬というものに乗った。翻る打掛の隙間を流れる景色を眺め、ただただ驚いていた。
(馬ってこんなに走るの早いんだ…それに、こんな高いとこから周り見下ろすのなんて初めて…)
 見慣れた景色が娘には信じられない速度で後ろへ遠ざかっていく。娘の口から感嘆が洩れていたらしい。男が肩越しに苦笑した。
「馬ん乗りたかったら、ボクがいつでも乗したる」
 どうやら男は乗りたい時に馬に乗れる身分らしい。そういえば、この男は誰なのだろう。ようやく娘は自分を攫った人物に興味を抱いた。顔を見ようと懸命に身を捩る。
「んな暴れんでも乱暴せぇへんよ。それよか落っことしてまうから大人しゅうしとって」
 器用に片手で駒を操る男が手綱を握り直した。前方には質素ながらも立派な構えの門が近付いていた。出迎えと思われる煌びやかな小袖姿の女達が悲鳴を上げ、声高に制止を訴えている門番らしき侍達の背後へ詰めかける。
「見世物やないんや、退かんと馬に蹴られんで」
 花嫁の出迎えであって、断じて野次馬ではない彼女達に罪はない。なかなか妻を迎えなかった領主の所為で仕事という仕事を与えられなかった今までの反動が出ただけだ。
 その領主が突然、何処で見初めたものやら村娘を娶ると言い出した。城構えを持たなくても細々した用には事欠かなかったが、仕えるべき女主人がいるのといないのとでは働き甲斐も異なる。彼女達は張り切った。ふらりと行方をくらます領主へ必死に食らい付き、件の娘の容姿を聞き出した。呆気に取られる領主を除者にして娘の為の打掛を用意し、部屋も綺麗に整えた。数年に渡る空しさを埋めるように精力的に働いた彼女達は、夏の気配も去らぬ頃には全ての準備を整え終える手際の良さをみせた。
―早う御方様をお迎えに行って下さいまし
 苦々しげに姦しいと文句を垂れる領主を捕まえては、早う早うと急かした。先代とは全く違う彼が簡単に自分達の首を斬らないと知っていた女達は、口喧しく領主を追い回した。酒を隠す時もあれば飯を抜く日さえあった。
―御方様を迎えに行って下さればかような真似は…
 困り果てた領主は、娘に打掛を送って文を認める、と妥協案を出した。それは近く婚礼の儀を挙げるという意味である。女達は喜んだ。今度は大喜びで婚礼用に仕立てた直衣を手に領主を追い回しはじめた。微笑ましい騒動を目にした家臣達も、ひっそり安堵の息を吐いて袖の影で涙を拭った。毎夜のように酒宴を催し、時には民も招き入れて主を祝った。
 彼等彼女等の嬉しさに満ちた顔を肴に、領主は抜けだした縁先で一人、盃を呷って月を見上げた。迎えに行くと決めた長月が掛け足で過ぎていく。淡く雲間に煙る月の面を撫でるように、今に至るまでの月日が領主の脳裏を過る。
『長かった…な』
 木の枝を手に侍の真似事をしていた幼い頃、彼は籠に入れられて何処かへ運ばれていく赤子を見た。隙間から零れ落ちるお日様色が気になって仕方なかった。秘かに後を尾行した。
 籠を背負っていた女は三日三晩歩き続けた。四日目の朝、小さな集落を見下ろせる丘で籠を下ろした。大木の陰に赤子ごと籠を置くと、何度も振り返りながら丘を下りて行った。
 赤子は捨てられたのだ。
 引きも切らず起こる戦に飢え、捨て子など珍しくない世の中だった。彼自身も親の顔を知らない。単なる口減らしだったのか、希有な色に恐れをなしたのかは分からない。捨てられた。捨てられても生きている限りは生きる、それだけだった。
 丘の麓から息を殺して籠を見ていた。見ていることしか出来なかった。しばらくすると頭に手拭いを被った老夫婦が籠に近付いた。籠を覗き込んだあと、老夫が籠を担ぎ、二人連れだって丘を下りていった。
 赤子は拾われた。
 気になって後をつけはしたが、幼い彼に赤子を拾って育てるだけの力はなかった。親切な老夫婦に拾われたなら良かった。彼は自分にそう言い聞かせた。
 数年が過ぎたある日、彼はいつぞやの赤子を思い出して懐かしい丘に上った。見下ろせば点在する藁葺の屋根。踏み荒らされた田畑。所々から上がる火の手に煙。呼ぶべき名を知らない彼は、赤子の育った姿を脳裏に思い浮かべながら闇雲に探し歩いた。
 見付からなかった。
 彼は数年分だけ大きくなった拳を握り締めた。唇を噛んで涙を堪えた。そして決めた。
―いつか、いつかきっと迎えに来るから…
 戦火の痕も痛々しい里を固く瞑った目蓋の裏に刻むと、彼は顔を上げた。二度と振り返らなかった。

 先代から簒奪した館にも土地にも落ち着きが見えはじめた頃、新たな領主となっていた彼は、たった一つの探し物を求めて馬を駆り、一帯を隈なく回った。
 赤子は美少女へと変貌を遂げていた。人里から離れた小屋に一人で住んでいた。あの時の老夫婦が遺したものだろう、と領主は思った。簡単に手折れてしまいそうな華奢な姿に眉を顰めた。土地を肥やさねば、と彼は独り言ちながら館に戻った。
 すぐに土地は肥えた。喜んだ民の手によって勝手に石高は増えていった。土地が肥えるにつれて狙う者が増えた。守らねばならないものを持つ領主となった彼は民の為、ゆくゆくは少女の為に刀を取った。男達は勇んで彼に従った。鋤を刀に、鍬を槍に持ち替え、彼等の守るべき女達の為に、彼と共に戦った。
 彼等の働きは領主の武勇となった。噂は瞬く間に野を越え山を越えた。攻め入ろうと企む者の数が減った。土地は守られた。彼が守るべき少女も守られた。
 それから数年、先代を殺した時から忠誠を誓ってきた家臣達が嫁を取れと言いだした。女達も同じように騒ぎ始めた。領主は困った。先代の血縁者は土地から追い出しただけだ、血で汚れた簒奪者などではない正しい血を継ぐ者を探せば良いのだ。それに今なら守れる…、彼は少女を連れてこの地を去る決意を固めた。
 翌日も早朝から、少女に名乗りをあげようと領主は馬を駆った。夏の陽射しを浴びて輝く一面の緑を抜けた先、いつもは遠巻きに眺めていた小屋へ一歩踏み出そうとして、止めた。こっそり後をつけてきた家臣に肩を押さえられたのだ。
―気に入っているのならば、あの娘を娶れば良い
『…はぁ?』
 少女が幸せであれば良いと思っていた。不自由のない暮らしをさせてやりたかった。腹一杯食べさせてやりたかった。願ったのは少女の笑顔だけだった。澄み渡る青空の下で無邪気に笑う姿があれば良かった。自分の傍に置きたいと願ったのではない。
 小屋の前の畑仕事に精を出す少女を遠目に、珍しく拙い言葉を繰る領主を家臣は苦く笑った。それを人は恋と呼ぶのだと教えた。
―恋?これが?
 館に戻った彼は一室に籠った。ひたすら考えた。こめかみを流れる汗も肌に纏わりつく着物も忘れ、心の在処を探した。だが答えは見付からない。彼は考えることを放棄した。虚空に少女の姿を思い浮かべる。手を伸ばした。少女が彼を振り返る。
 領主が戸を開けると、廊には先日の家臣が一人だけ頭を垂れて控えていた。
―ご決断なさいましたか
 領主は二年待ってくれと告げた。少女が娘に成長するまでに必要とする歳月だった。彼は浪人姿に窶して時おり館を抜け出し、少女の姿と無事を見守った。小屋の前に菜の種を置いて帰るだけの日もあったし、留守の合間に水瓶を満たして帰る日もあった。
『らん…ぎ、く?』
 ある日、彼は戸板に刻まれている文字に気付いた。煤けた戸板に彫られた四文字の仮名を指でなぞる。過ぎし日の残像が見えたような気がした。それが老夫婦の付けた少女の名であると気付く。似合いだと思った。帰り途、何度も繰り返した。言の葉に乗せる度に少女への想いが曖昧なものではなくなっていく。これが恋だ、と彼は悟った。
 二年の月日は瞬く間に流れ、少女は立派な村娘へ成長を遂げた。追い回してくる女達から領主が逃げ回らなければならなかった日々が終わりを告げた。
 刻限の日の朝、意気揚々と迎えにいった駕籠一行が追い返されてすごすご戻ってくると、苦笑を洩らした領主は伴を全て断って自ら馬を駆って飛び出した。

「取り敢えず食べるもん何でも、奥の間までぎょうさん持ってきてぇな」
 鐙で腹を蹴られた馬が居並ぶ面々の上を飛び越え、領主の機嫌の良い言葉と翻って落ちた打掛だけを残して走り去っていった。




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